小さな頃から私たちのほとんどは、「こんな願いを叶えたい・・・」と誰か大人に話すと、じゃあもっと頑張らないとね、とか、こんな人にならないとね、とか、もっとたくさん勉強しないと、とか、もっと努力しないとか、言われてきたと思います。
つい最近、私が小学二年生の頃の文集が出てきたので読み返したら、「夢を叶えるためには、お父さんの言うことをちゃんと聞けば叶うと言われた」と書かれていて、あの時の自分を思うと少し悲しい気持ちになりました。当時の私は歌手になりたかったので、お父さんの言うことを聞くこととなんの関係があったんだろう・・・と今考えると本当に謎です(笑)
きわめつけは、「芸能界は厳しいけれど頑張ります!」と書かれており(笑)すでに、小学二年生にして、芸能界は厳しいとか、頑張らないととか、そういう余計な観念を持ってしまっていたんですね(笑)
今でも多くの人が信じているかもしれませんが、願いを叶えたいならもっと自分に何かを付け加えないといけない、もっと苦労しなければいけない、もっと人格的に優れなければならない、もっと人の期待に応えなけれないけない・・・
そんな風にもっと自分にプラスしなければならないと思っているんですよね。
確かに、ピアノ弾きになりたければ、ピアノを弾いた方がいいですし、絵描きになりたければ書いた方がいいですよね。
でも、それは、ピアニストになりたいから弾くのでも、絵描きになりたいから書くのでもなくて、ピアノを弾かずにいられないから弾くし、絵を描かずにいられないから描くんですよね。
ピアノを弾くのも、絵を描くのも、自分の内側からそうしたいという衝動がやってくるからそうするんですよね。
その中で、願望というのはそのものへの愛によって自然に成就していくものなのではないかと思うんですね。
みんな、こんな風になりたい。と思うと、じゃあどうやって願いは叶うんだろう?
どうしたらいいんだろう?
と思うと思います。私もジョセフ・マーフィー博士をはじめ、本当にいろんな願望実現法というのを研究してきましたし、試してきました。
そんな中で今になってようやく感じていることは、願い事というのは対象への「愛」によって自然に実現するのではないかということです。
昔は、努力、努力、そんな風にいろんな願いを叶えてきましたが、努力して、耐えて、叶えた願いというのは、一時的な喜びしかもたらさなかったんですね。
なんとか策を巡らせて、頑張って手に入れたものというのは、手に入れてはみたものの、次の目標をすぐに追いたくなってしまっていたんです。
人に良く思われたい、だからそれを叶えたい。自分の価値を高めたい、だからそれを実現したい。そういうものはすべて本当に欲しかったものではなかった気がします。
こんなことのために頑張ってきたの?と思うようなものもたくさんありました。
私たちが生きているこの宇宙というのは、小さな頃から教えてもらってきたより本当はずっとずっと優しくて、慈悲深く、完璧な場所です。
ですから、何かの願望を抱くということは、それは策を巡らせなくても、苦しまなくても、自然に実現していくもの、なんですね。
願望という想いそのものに、実現する方法も含まれているんです。
願望が生まれると、自動的にそれが目に見える形に具現化していくようにできているということです。
それを、奇跡と私たちは呼びたくなるのかもしれませんが、私たちという神聖な存在にとって、それは本当はとても自然なことのはずなんです。
けれど、そういう自分をまずは忘れてしまっていますよね。
だから、とにかく自我の力を使って叶えよう、叶えよう、としますし、疑いますし、おまかせできないし、焦りますし、自分を責めたり、人に嫉妬したりするんですよね。
外の世界は自分の心の想いに反応していきますから、「自分を忘れている」時というのは、心は穏やかじゃないですし、怖れを感じていますよね、そんな時は願いが実現しにくいですよね。
願いが自然に叶うのは、心にある「愛」の力によってなので、心では真逆のことが起きているということなんですよね。
願いが自然に叶うのは心にある「愛」なんですよね。
愛そう。愛さないと。
という能動的な愛ではなくて、邪魔するものがないと、愛がそこにあります、みたいな愛です。
なんというか、例えば、電球を覆っていた毛布を剥がすと、光が広がっていく、みたいな感じです。
ただ、怖れを取ると、そんな風に愛が現れてくる、といった感じです。
誰にでも願いがあるし、叶えたいと思います。でもなかなか叶わない。
そんな時、ちょっと思い巡らせてみてください。
それを叶えたい、それが欲しい、実現したいという気持ちそれそのものに「罪悪感」を感じてはいないか。こんな願い恥ずかしい、そんなの贅沢、自分がそうなりたいなんて思っちゃいけない。自分なんかがやりたいって思っちゃいけない。こんな自分が・・・・そんな風に怖れを感じていないか。
自分が愛しているものを、ただ愛していることにすら、罪悪感を感じていないかということです。
どんなことを叶えたくても、それは心の声だから、いいんです。
それに心が向かってしまう、そのことを通して、自分の中の愛を表現したいと感じる、それを自分に許してあげてください。
それは、神の望みでもあります。
本当の自分を思い出して、そして、自分の願望を許してあげてください。
自分で自分の願いを許可できないときは、その自分に許してあげられない苦しさとか、罪悪感とか、そういった思いをどうぞ、癒してください。と天にお願いしてみてください。
もっといい自分になるために、もっと、もっと、と頑張らなくてもいいんです。怖れを引き算して、光が自然と、愛が自然と溢れてくるようにしてあげてください。