願望の実現に欠かせないこと

私たちの多くは、何かを実現したいと思うと、例えば、そのために何ができるのか?と考えて、自分が良くなるように努力をしたり、変えようとしたりということをしてきたと思います。

その時、自分を誰だと思っていたのか?と思い返してみると、この世界の登場人物の一人、そんな風に思っていたように思いませんか?

この世界でどうやって生き抜こう、どうやったらこの世界で一端の人間になれるか、他の人に劣らないでやっていける存在になれるのか?そう考えている時、自分というのはこの世界に後からやってきて、そして、いつかはこの世界を“残して”去っていく存在だと思っていると思うんですね。

この世界というのはもともとこういう状態で存在していて、その世界に生まれて、その世界を生き抜かなければいけない、そう思っている時、自分が誰だかを忘れて、自我を自分自身だと思ってしまっているんですよね。

この世界の中で「結果を出そう」と思って努力している時、苦しいのも満たされないのも、その努力の方向性が「自らを忘れたままになる」という方向だからなんですよね。

 

私たちが現実の創造を考えるときに、常に思い出していたいことは、自分がこの世界の登場人物の一人ではなく、

この世界があるのは自分がいるからだということです。

自分が主役だということです。

他の人も自分で、むしろ自分一人しかいないということです。

この世界は完全な自分が夢見ている夢の世界だということです。

 

本当の自分を忘れているときに願いを叶えようとするのは、できないかもしれないけど・・・という意識が前提として働いているんですよね。

何かに追われていて、焦りを感じ、余裕がないその心の波動で一生懸命に実現しようとしているんですよね。

 

けれど、本当の自分が制限のない意識であり、本当に無限であり、できないことは何もない、そういう存在なのだということを思い出しているとき、その完全性が反映された経験を日常の中でするんですね。

 

何かを叶えたい、と思うとき、それは言い換えてみれば自分が完全であることを感じたいということだと思うんですね。

何かを実現したいと思うとき、それが何であったとしても、自分は欠けていないし、完全な存在だと感じたいという想いが根底にあるんですよね。

そして、本当に私たちというのは全き存在なので、そこに心が向くんですよね。

誰もが願いを持ち、願いを叶えたいと思うのは、自分の完全性を思い出したいという願いが、もっとずっと深い部分にあるからだと思うんです。

完全性を思い出す、それを、目覚めるという表現をする人もいるのかもしれません。

優越感も、罪悪感(劣等感や無価値感)もない、そのもっとずっと中心の部分にある完全なる存在が私たちです。

 

完全で、自由で、無限。

願った瞬間にそれを実現させることができるだけの創造の力を備えている、それが私たちの本来の姿です。

なりたいものにはなんでもなれて、やりたいことはなんでもやれて、行きたいところへはどこへでも行ける、それが私たちの本来の姿です。

そういう自分を思い出す道を今、歩んでいるんです。

 

欠けていると思っている自分は自分ではないし、人と比べて劣っているという自分、それは本当の自分とは無関係です。

だから、欠けている自分をなんとかするための願いというのは不要なんですね。

 

完全なわたしを経験したいです。完全な自分を受け入れたいです。

それを助けてください。

そうお祈りされてみてください。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です