私たちは何にでもなれる

最近、つくづく思うのは「自分ってこんなタイプ」と思っている、その自分というのは、そうであってもいいし、そうでなくてもいい、ということです。

私たちは何にでもなれる、というのは、例えばそれなら自分もドナルド・トランプみたいに策略家や大金持ちで世界を支配できる権力をもてるんだ!ということもそうかもしれませんが、それ以上に、なんで自分はこんななんだろう・・・・と思うそのダメな自分というのは、自分でそう思い込んで、そう演じてきているだけで、そんな自分でなくてもいいということです。

私たちは想いを見ているので、その想い、つまり自分に対しての想いが変われば、違う自分を経験していくことができるし、自己啓発の世界で言われているように、そういう自分になるために自分で努力をするとか、自分を変えようとするとか、そういうことも必要ないんです。

 

例えば、受け身で会話が苦手だと自分で思っている人が、さあ自分でコミュニケーション上手になろう!と決めて積極的にしないととか、自分から行かないととか、そうやって自分を変えようとする必要がないということなんです。

こんな自分じゃダメだって、だから違う自分になろうとして、自分で積極的にやろうっていう、それをしなくていいんです。

 

何にでもなれるので、焦って自分を変えようとして、自分の考えで目標を定めなくていいんですね。

この例だと、そもそも、積極的になってコミュニケーション上手になりたいのはなぜか?って思い巡らせてみるといいですよね。

何を得られると思っているのか、今の自分じゃダメだって、受身はダメなのはなぜなのか、本当に受身はダメなのか、本当は会話が苦手なのかって、心を見てみるといいですよね。

それで、そうしないと例えばパートナーができないから、とか、そうでないと営業成績が上がらないから、とか思っているとしたら、その想いが不要なものだし、制限のある見方だし、無限である自分を忘れてしまっているんですよね。

何を自分は体験したくて、自分を変えなければと思っているのか・・・

体験したいことを、そのままお祈りで自分の内側の無限に伝えたらいいんです。

パートナーと愛し愛される体験をしたい、拒絶を怖れずに思い切り愛を表現したいということなら、それをそのまま伝えて、方法は内側の無限のアイディアにお任せします。

そして、そのために自分の身体も言葉も、使ってもらえるよう助けてもらいます。

自分が愛されていることを見逃さないよう、助けてもらいます。

自分は愛される存在なのだという真実を信じられるよう、助けてもらいます。

 

もう祈ったのだということと、祈りを届けたその「無限」が自分にあって、そこがやってくれるということを思い出し続けます。

その過程で、積極的でコミュニケーション上手になるかもしれないし、話すことが好きな相手の聞き役や受け止め役になることで自然と楽しい時間が過ごせるかもしれません。

どちらにしろ、何も諦めないでいいし、経験したいことが経験できます。

無理な努力なしにです。

 

私たちはどんなことでも体験できます。

豊かさも、愛も、喜びも、どんなことでも求めれば体験できます。

 

何にでもなれる・・・

そう聞くと、確かに何にでも私たちはなれる存在なのですが、「違うもの」を求めてしまうときがあるんですよね。

だから、本当に本当に体験したいことをお祈りを通して求めたいですね。

こんな自分だからダメなんだと・・・

この自分のままじゃうまくいかないに違いないと・・・

もうそういうのが一切いらないということ、自己否定はいらないということなんですね。

無限の方が本当の自己だから、その無限から単に別のものを選べば(選んでもらえば)よかったということです。