求めれば与えられる、とよくスピリチュアルな世界では聞くことが多いと思います。
でも、求めてるはずなのに与えられないじゃないか!( *`ω´)
って思ったことのある方も多いと思うんです(笑)
最近、昔の本とかを読み返していて、本当はちゃんと書いてあるのに記憶が抜け落ちてしまっている部分とかあるんだよなぁ・・・と感じています。
そして、実は、「求める」と「欲しがる」との間には雲泥の差があるということに、そうそう、コレなんだよね!と思ったんです。
欲しがっているときは確かに与えられないんです。
でも、求めると、与えられます。
?
欲しがっているときというのは、どうやったら手に入るんだろう?とその方法を自分で探し回って、ああでもない、こうでもないと悩んでいて、自分にそれが相応しくないのかもしれないと思っているし、自分の手に全てを握りしめている状態なんです。
けれど、求めるというのは、自分がそれを手に入れる権利があることを知っていて、それを宇宙なり天なりに、お願いね!とお願いして、あとは信じて待っているという信頼のエネルギーを発している状態なんですよね。
ロンダバーンさんの引き寄せの法則のDVDとかにも確か、この辺りの違いとか説明されていた気がします。
前者は、欠落感の波動が出ていて、目に入ってくる情報や知覚できることも自分を現場に維持させ、制限する情報になり、後者は、制限がなく、あらゆる可能性に開かれている高い波動です。
欲しいものが自分の人生に現れないとき。
まず、その欲しいと思っているものを「自分は受け取っていいと思えているか?」
というところを見直したいですよね。
すごく正直になると、自分には相応しくないんじゃないかとか、自分だけもらってはいけないんじゃないかとか、いろいろ、受け取れないかも・・・っていう疑いだったり、罪悪感だったりあるかもしれません。
それでもし見つかった場合、じゃあ、それを無くすにはどうしたらいい?ってならずにいて大丈夫です。
ちゃんと、自分にはこういう思いがあったんだと、意識化できたら、後は、自分の中の神なり、宇宙なりにお任せしてしまいます。
意識化できただけで終わったも同然です。
宇宙も内なる神も、過去に何をしたか、何をしなかったかとか、罪があるからとか、潔白だからとか、悪人だからとか、いい人だからとか、真面目に頑張ってきたからとか、怠けてきたからとか、そういうことで何を与えて何を与えないかとか決めないんですよね。
それは、人間のするジャッジメントです。(悪い子はご飯抜き!みたいな)
神の目には、みんな純粋無垢な子に写っているんです。私たちが罪だと認識することは、神にとっては単なる軽いミスに過ぎないから裁いたり罰を与える必要がないんですよね。
だから、悪い人でもお金をたらふく持っていたりするし、わがままで意地悪い人でもパートナーいたりするじゃないですか。
綺麗で親切な人なのにパートナーいない人もいれば、いい人なのに貧乏の人もいますよね。
蛇足ですが、私の大学時代Tくんというお世辞にも素敵なお顔じゃない上に、クラスのみんなもドン引きするくらいわがままな男の子がいたのですが、なぜかかわいい女優さんと付き合ってキャンパス内を闊歩してました(笑)
自分で自分をジャッジして、自分は何を受け取るべきだとか、何は受け取ってはいけないとか、そうした必要は本当はいらなかったということです。
多くの場合は、その人が悪いというよりも、いろんな理由で自分で自分に幸せを許せないというのが原因だったりします。
それも、自分は、自分に幸せを許せないんだ、そういう思いがあるんだ、と気づくだけで、オッケーです。
今日のお祈り
「内なる神(宇宙)よ、私が幸せを受け入れられるよう助けてください。私が過去に何をしてもしなかったとしても、私は幸せになるに値します。私が自分の無垢を受け入れられますよう助けてください。」