何を願ってもいい

昔、題名のない音楽会というクラシック系の番組でまだ小さな小学生くらいの子がヴァイオリンを弾き、ある有名指揮者の人に

「あなたの将来の夢は?」と聞かれ、

「ベルリンフィルで弾くことです」と答えたんですね。
(ちなみに、世界最高峰のベルリンフィルで演奏している日本の人というのは現在は1人だけだったと思います)

指揮者の方は「それはずいぶんと大きな夢だねえ」といぶかしそうな顔をしました。

まだ若かった私は、大人ってこういう人多いよな・・・とその時思ったことを覚えています。

若い人たちの中には平気で「将来はビッグになりたい!」とキラキラした目で答える人たちがいます。(そうだよ、君の本当の姿は君が思う以上にビッグだよ!と言いたくなります)

でも、早々に妥協したり、夢を諦めた人、一部の大人たちは、

何言ってるんだよ、現実を見ろよ

と鼻で笑ったりするんですよね。

こういう人たちをコーチングの世界ではドリームキラーと呼んだりします。

 

でも・・・

 

実は、私たち自身の中にこそ、「ドリームキラー」が住んでいるんですね。

本当にこわいのは、水を差す外側の人たちではなく、自分の中に住む自分の夢を疑う怖れの声の方、自分というドリームキラーなんです。

 

自分の願いというのは、恥ずかしいものなんじゃないか

自分の願いというのは、単なるわがままなものなんじゃないか

自分の願いというのは、卑しいものなんじゃないか

自分の願いというのは、贅沢なものなんじゃないか

自分の願いというのは、単なる欲なんじゃないか

自分の願いというのは、かんちがいなんじゃないか

 

そんな風に誰もが思ったことがあると思います。

何かを願っているのにも関わらず、そんなことを願っている自分を心のどこかで批判しているんです。

願いながら、こんな願いを持っている自分に罪悪感を感じているんです。

それこそが、願いが叶ってこなかった原因なんです。

自分の心に本当に正直になると、願い事に対して自分自身が相反するような思いを持っていたことに気がつくと思います。

 

でも、思い出して欲しいのです。

私たちの中にはスピリット(神)が存在しています。

私たちのハートにある強い願いというのは、神の思いそのものなのです。

 

前に、委ねることとは何かを犠牲にすることではない。

というお話を書いたことがありますが、その理由はハートの願いというのは神の願いだからとも言えます。

また、委ねると逆に願いが叶い出すのは「自分がそれを願っているという罪悪感」から自分を自由にできたからとも言えます。罪悪感が生み出す抵抗のエネルギーが消え、自然に願いが叶う本来の流れに乗れるんですね。

 

たくさんの人に認められたい。と思っていたとしても、ハートからの願いを見ていけば、

自分は他の人に劣ってなどいないということを感じたいのかもしれません。

多くの人に与えられるものを自分は持っている、自分は才能豊かなのだと感じたいのかもしれません。

多くの人にハートにある自分の表現を届けたいのかもしれません。

自分には価値があり、愛される人間だと感じたいのかもしれません。

 

それこそ神の思いです。

 

有名になりたい!と言ったところで、自分なんかが・・・とか、きっと知られたら誰かにバカにされる・・・そんなのエゴだよね・・・と思うくらいなら、

自分のハートを信じて、神の思いに自分が加わっていけばいいんです。

たくさんの人の前に出て自分を表現する。

たくさんの人と出会っていく。たくさんの人に自分を分かち合う。

というのは、神の思いなのですから。

 

弁護士や医師、経営者と結婚したい!と思ったところで、高望みのしすぎ・・・私なんか相手にされるはずない・・・とか、きっと人に知られたらバカにされる・・・と思うくらいなら、

自分のハートを信じて、神の思いに自分が加わっていけばいいんです。

自分や相手を信頼し尊敬したい。そしてお互いをそう思い合える人と愛し愛されたい。というのは、神の思いなのですから。

医師や経営者と結婚したいのは、お金持ちと結婚して楽して暮らしたい。

という理由だったとしても、ハートの中を見て、美しいものに囲まれてのんびりとゆったりあくせくせず好きなことをして優雅に暮らしたい。将来を心配せずに生きていきたい。というところにたどり着けば、

自他の美しさに浸り、自由に、のんびり、安心して生きること。

それが神の思いだということに気づきます。

 

こんな風に見てくると、私たちが願いについて罪悪感を感じたり、自己批判をしてしまうのは、

ハートにある思いを叶える「手段」について自分で決めてしまっているからと言えるかもしれません。

美しいものに囲まれて、のんびりとゆったりあくせくせず好きなことをして優雅に安心して暮らしたい。

というのがハートの願いなのに、

それを叶えるためには、玉の輿に乗らないと・・・と手段を決めて、そんなことは・・・と自分で罪悪感を感じる。自分を批判してしまったりするんですね。

 

ハートの願いが神の願いでもあったと気づければ、罪悪感は和らぐと思います。

そして、「手段」はお任せすることもできます。

玉の輿に乗るという手段に躍起になり、焦り、自分を責めたり、日々心を不安定にさせるよりも、神の願いでもある

美しいものに囲まれて、のんびりとゆったりあくせくせず好きなことをして優雅に安心して暮らしたい。

という意図に加わっていくんです。

そして、お任せしたのだから・・・とちょっと心が安心してくると、今まで気がつかなかった身の回りの美しい景色だったりに気づいたり、綺麗なカップで紅茶を飲んでくつろいだり・・・とすでにそういう生活の中に入って行っていることに気がついたりします。

その「今」がそこからもっともっと広がっていくんですね。

その先にそれこそ、玉の輿と言われる人と結婚するか、自分が自分の中の美を表現し分かち合うことで、好きなことをしてたくさんのお金を稼げるという未来がやってくるかもしれません。

神の願いなので、それが叶わないはずはないですし、手段は神にお願いすると、全ての人にとってベストであり、何の犠牲もない「奇跡」の道のりとなるはずです。

ハートの願いは神の願い。

だから、それは自然にすんなり実現していくんです。

 

それでもやっぱり絶対に玉の輿!有名人!人に認められたい!

そんな時は、「玉の輿に乗りたい」「有名人になりたい」「人に認められたい」そういう思いを神に使ってもらう。

そういう願いを全部、神様の奇跡の最高のプランの道具として使ってもらう。

そうしてもらえるようお祈りしてみてください。

高級車も、新車も、海外旅行も、ファーストクラスもマイホームも・・・

どんなものでも、何も諦めなくていいし、何を願ってもいいんです。