等身大の自分でいい

スピリチュアルな世界に興味を持ち、苦しんでいる人の多くは、

自分にも他人にも「聖人君子」の役割を求めていることが多いんですね。

完璧な人間、愛に溢れ何でもポジティブに捉えいつも笑顔でどんな人でも受け入れて、愛を与えられるような、理想的な人間。

そういう誰かを外に求め、そういう誰かに自分がならなければ人には愛されないし認められない。そう思い込んでいるんです。

でも、それはどこからやってきたかといえば、

自分の中の「深い劣等感」からやってきているんですね。

完璧でなければ自分は愛されない。

と人生の初期の段階でそう判断してしまったのです。

 

私たちはみな「神の子」だとして、それは私たち誰もがイメージするような愛に溢れ、完璧な神様のように他人に対して振る舞いなさい。という意味ではありません。

無条件の愛で誰かを愛する理想の母親のように他者に接しなさい。

という意味でもありません。

 

むしろ、無条件の愛でみんなを愛する理想の母親や、何でも解決できるスーパーマンのような人間でなくても、なお神の子であり神の一部です。

という意味です。

神の子だから、それがどんな自分であってもかけがえのない価値があり、素晴らしさは変わらない。という意味です。

神の子だから他の人が期待するであろう特質を全部備えていないといけないという意味ではありません。

何をしても、しなくても愛される存在だから、神の子なのです。

 

もともと聖人君子のような人であるのなら、仮に聖人君子のように振る舞えない時があっても自分を責めることもないでしょう。

聖人君子のように振る舞えない人は、聖人君子として生まれてきていないし、そう生きるようにできていないので、聖人君子でない自分を責める必要はないのです。

それは、何で自分の肌は緑色ではなく、頭からツノが生えていないんだ、こんな自分はダメだ自分だ!といって自分を責めて否定しているのと同じことです。

実際の自分を偽って他人から立派な人、できる人と思われるよりも、等身大の自分として振る舞い、その通りに思われて、尊敬はされなくても自分を偽っていないほうが幸福なのです。

他人にどう思われるかよりも、自分が自分をどう思うかの方が自分が感じる幸福感に影響します。

 

自分が「完璧な神の子」なら、自分が理想としている姿に自分はなるはずなのに、この自分はいったい何だろうか!受け入れられない。

という思いが自分を苦しめるのです。

完璧な自分でないと愛されない、人に認められない。尊敬されないと自分には価値がない。

という思いが自分を苦しめるのです。

そして、自分が完璧でないことで苦しんでいれば、完璧でない他者を責めたくなるのも当然ですし、外から見てちっとも完璧でないのに幸せそうにしている人たちに嫉妬を感じるでしょう。

私たちはそのままで本当に完璧にできています。

その顔で、その身長で体重で、その場所に、その時、自分だけの才能を持って生まれてきたことには最高の意味があるんです。

誰かみたいになろうとして何かを盛ったり自分以外になろうとしなくていいんです。それが不調和の原因だからです。

 

他人に対して聖人君子であることを要求する人がいるのなら、その人が他者に自己犠牲を求めるずるい人なんです。

そのような人の期待に応える必要はありません。

本当に成熟した人は、他人に対して聖人君子であることを求めません。

本当にあなたを愛する人はそのままのあなたを愛するでしょう。

 

ですから、「スピリチュアルを学んでいるから」

という理由で聖人君子やスーパーマンになれない自分、他者の期待に応えられない自分を責めずにいてください。

等身大で十分なんです。

私たちは自分になるために生まれてきたのです。