「他の人にどう思われるかなんて気にしちゃダメ。」
そんな風に、歌でも、本でも、ドラマでもいろんなところで聞きますが、頭ではわかっていても本当に腑に落ちた感覚になるまで時間が必要な人も少なくない気もしています。というか、私がそうでした。
他の人にどう思われるかが心配というのは、ルーツを辿れば「母親(幼い頃の養育者)に嫌われたら生きていけない」というところから来ている。というのが一説にあります。
確かに、幼児の頃、子供の頃などはお母さんに本当に嫌われてしまったら、食事ももらえないし、住むところまでなくなり、生きていけないわけです。嫌われている人に依存しなければ生きていけないほどしんどいことってないですよね。
その頃に、自分の気持ちや欲求、意志を持つことを許されず、親の意に沿わないことをすれば、追い出すと言われたり、叩かれたり、怖い顔で睨まれたりすれば、生命の危機すら感じるんですよね。
生きていけない。と。
そうした体験が何度もあると、どうしても母親や養育者の顔色を伺うようになっていきますし、親を不快にさせないように生きてくるしかないんですね。
母親が自分をどう思うか、母親が自分の選択をどう思うかが気になり、そんな母親に嫌われないように、嫌われないように、と自分の気持ちを優先に生きることを諦め、ただ嫌われないように生きてきます。
そうして、大人になって、本当はもう嫌われても生きていけるはずなのに、その頃の恐怖感に縛り付けられたままになってしまうんですね。
もう大人になっていても、潜在意識では、小さなインナーチャイルドが「人に嫌われたら生きていけない・・・」と思っているんですね。自分の気持ちや感情を大切にしながら、それに従って生きた経験がないから自分の考えを信じていいのか、それを実行に移しても大丈夫かと、不安なんですよね。
サーカスで鎖に繋がれた象のお話をご存知ですか?
あるサーカスにいる大きな象がとても小さな杭に細い鎖で繋がれていました。
少年は父親に言いました。
「あれだけ大きな体で力があるのならすぐにでも逃げ出すこともできるだろうに、どうしてそうしないの?」
父親は答えました。
「象は小さな頃から、小さな杭とその鎖にずっと繋がれていたんだ。子供の頃の象はその杭がとても大きく感じて、何度も逃げようと試みたことたはあったが、それは叶わなかったんだ。そのうち諦めて「自分はこの鎖から逃げられない」と思ってしまったんだ。だからこんなに大きな大人になっても逃げようとしないんだよ。」
大人になっても、いまだにお母さんの幻想を外側の人たちに投影しているんですね。または、すでに年老いた母にまだ自分を押さえつける力があると思い込んでしまっているのかもしれません。
私たちの多くというのは、本当は大きく力もある像なのに、いまだ自分を無力な子象だと思い込んでいるのです。
養育者の愛が条件付きの愛で、その条件が厳しければ厳しいほど、そしてその期待に応えてきた人や期待に応えないと裁かれた人ほど、他の人の目が怖いかもしれません。他の人から嫌われることが恐ろしいかもしれません。
反抗期があり、なおかつ反抗期も受け止めてもらえた人や、養育者の期待に沿わない決断をしても受け止め、応援してもらえた人というのは、人の目が気になりにくいかもしれません。
これも、家系間の連鎖があると思うので、母や父などの養育者もまた、そのように育てられてきているはずなのです。
ただ、私たちはもう大人なんですよね。
子供の象ではないんです。嫌われても生きていけるんです。
自分の外側の人が自分をどう思ったとしても、それに左右される必要はないんです。
自分がどんな存在であるかを決める力、それは自分にあるのであって、そんな力は他人にはないんです。
もしあるとしたら、自分が相手にその権限を与えてしまったからです。
そう考えていくと、誰かに認めてもらうことに意味ってある?という話になっていくんですね。
認めてもらうというのは、他人の主観によるものです。たまたまその人の期待に添えただけの話です。期待に応えられなければ、認めてもらえなくなりますし、その人の中の基準が変われば認めてもらえなくなります。
そんな不安定なものに、自分の価値を決めさせなくていいんです。
好きな人に好きになってもらいたい。好きにさせておきたい。嫌われたくない。とどんなことでもするのも、自分を抑えてしまうのも、相手に権限を与えてしまっているのと同じです。
他人の気持ちはコントロールできません。
思ってもらいたいように思わせることなんてできないし、コントロールしてそう思ってもらっておもしろいですか?という話です。駆け引きとかそうですね。
思う人は思うし、思わない人は思わない。
そう思うのはその人の自由だし、その人の問題なんです。
どれだけ細心の注意を払って相手を気遣っても、嫌う点を見つけてくる人やでっち上げる人だっています。
私自身、ずっと人に嫌われたくないと思っていた人で、本当に人に気を遣って生きてきた時が長かったですが、どれだけ良くしても、迷惑かけないようにやっても、どれだけやっても、嫌ってくる人や粗探しをする人はいたんですね。
今思えば、そうした人たちはギフトだったと思います。
人に嫌われないようにするなんて無駄なことはやめよう。
そう思えたからです。
何をやってもとやかく言う人は言います。言わない人はそもそも言わないんです。
自分に他人に何かを思わせる力はない。
と思うと、生きるのが楽になると思います。他人の感情や幸、不幸に責任を取る必要も無くなります。
誰も自分が決めただけしか幸せにならないし、不幸にもならないんですね。
生きづらさを感じている方の中には、親の感情の責任を子供の自分が負ってきた、親の幸、不幸の責任を自分が負ってきたという方も多いと思います。
自分の気持ちや感情、欲求、希望、意思を持つことはいけないことなんだと感じてきた方も多いと思います。
でも、今こそ、自分は小さな象ではないことを思い出す時なんです。
世の中で自己実現していきている人の中には、もともと、小さな象ではないことを親に教えてもらえたラッキーな人と、小さな象であることを勇気を出して自らの意思でやめた人の両方がいると思います。
他人というのは、思いたいように思い、感じたいように感じます。
そして、同じように自分も思いたいように思っていいし、感じたいように感じていいんです。
もし、ものすごく人の目が気になる方で、今も親やパートナーに嫌われたくない、見捨てられたくないと思って相手の意向に沿って自分を抑えて生きている方は、一度、相手に本当に嫌われてみることや失敗を覚悟で、自分で自分の人生の選択をし、それを貫くと良いと思います。
ちなみに、その件で誰かを説得し納得させようとする必要もありません。説得というのは、承認を求める、許可を求めるということです。相手の領域やテリトリーのこと、共有することであれば、相手の許可が必要ですが、自分だけの領域のことについて、許可をする権限を誰かに与えなくていいです。自分自身の人生のことは自分で決めていいんです。そしてその代わり、責任もリスクも自分で取ります。
嫌われたくない。悪く思われたくない。変に思われたくない。
というような思いは、相手をコントロールすることに繋がりますし、相手に自分をコントロールさせてしまっているのと同じですから、そこから出ないと自分の人生はないんですよね。
この辺りも、引き寄せや願望実現のベースになってくるところなので書いてみました。人の目を気にすることが減ると自由度と安心感がぐっと上がり、引き寄せにも良い影響があります。引き寄せのためにポジティブな捉え方をしたり、感謝を数えたりするというのは正論ですが、それ以前に自己否定の強い方は、自分が物事を自由に感じたり、思ったり、選択する自由を自分に与えるというベースがあると良いと思います。
人の目が気になる・・・
そんな時は、自分に何を感じてもいい、どんな希望や意思、欲求を持ってもいいと自分に許可してあげてください。
そうすると、他の人が自分のことをどう思ったとしてもどう感じてもそれはその人の問題だし、ある意味相手の権利でもあると分けられるようになると思います。