完璧主義をやめて今すぐ幸せになる

しあわせを感じやすい人は、完璧主義ではないということを最近、つくづく感じるようになりました。

逆に、しあわせを感じにくい時、完璧主義の状態で自分にも他の人にも完璧を求めすぎなんですよね。

完璧主義というのは、物事や人が自分の思い通りでないといけないし、思い描くような形ではないと納得できないということですが、私たちが知覚できる人や物事が100%自我の思った通りに行動してくれたり、満足の状態になるということはほぼありません。

知覚できることは、支援と試練の組み合わせでできているからです。

これは、物事にはポジティブな面とネガティブ面の二極でできているという意味以上のものです。

試練を拒み、支援ばかり求めると退化していき、人生がひらけていかないんですね。

 

この宇宙では、知覚できる一つの状態には、自分にとって直接の助けやサポートになる極と、自分が拡大し成長するために必要なチャレンジ面との両方がセットになっています。

例えば、豪華なクルーザーを所有すれば、クルーザーで大海原を航海したり、海釣りで釣りたての魚を食べられたりするのは良いですが、マリーナの維持費や台風の対策、定期的なメンテナンスなどが必要ですし、情報交換のために人間関係を円滑に行う能力も必要になってきます。

私たちは、好きな仕事での成功も富も愛も健康も手にすることができますが、それと同時に「試練サイド」の出来事も受け入れる必要があるんですね。

 

エゴは、私たちに「100%の幻想」を抱かせるのが得意です。

もっと〜だったら幸せになれるのにとか、あの人がもっとこうしてくれたら自分は満足できるのにとか、あの人の〜のところがなければ自分は幸せなのにとか、足りない部分に意識を向けるように仕向けるんですね。

でも、この世界で目に見えることで「支援だけ(心地よく感じられるものだけ)」というものはありません。

すべてのものは、支援と試練がセットなんです。

 

それが受け入れられず、支援のみを求める状態が、「完璧主義」なんです。

完璧主義は、自我の都合にとって良いこと、良い人だけを求める姿勢です。

完璧主義が過ぎると、人生から引きこもったり、自分に我慢をさせて鬱などになってしまうんですね。

自我が思い描く100%の満足が外の世界にも他の人にも、自分にも、見つけることができるはずなのに・・・というのはエゴの幻想です。

どうしてみんなこうなんだとか、どうして全てがうまくいかないんだとなっているときは、人生に試練やいわゆる嫌な出来事があってはならないと思っているということなんです。

けれど、自我の都合に100%あう状況も、人も、知覚する世界では現れてくることはありません。

自分にも、他人にも、状況にも、支援のサイド(良いもの)だけを求めると、人生がにっちもさっちもいかなくなってしまうんです。

例えば、お金はもっとたくさん欲しいけれど、忙しくなるのも、人間関係が煩わしくなるのも、自由がなくなるのも嫌だな・・・働くのやめよ・・・でもお金どうしよう・・・って思うような感じです。

輝きたい、でも出る杭は打たれるのが怖い、でもこのまま終わりたくない、でも人が怖いから外に出たくない・・・みたいな感じです。

知覚できる世界は2極の世界なので、必ず「試練(成長しより自由になり輝く自分になるチャンス)」がつきまとうんですよね。これは、「無常」というよりは、エゴの目から見ると脅威に見えても、究極的には「本当にいいことしか起こっていない」という意味で捉えると良いと思います。

 

完璧主義になり、「試練」が受け入れられないと、いつも心はざわついてしまいます。

いつも、何か自分の気に入らないことが起こっていることになって心が休まりません。

いつも自分や他の人、状況に期待しては裏切られ、イライラと怒っていたり心配しているしかなくなります。

けれど、願望が一番実現しやすいのは、争いのない平和な心の状態なんですね。

なので、あらかじめ、全てが「自我の思い通り」全てが「快楽だけ」というものはこの宇宙ではないということを受け入れることで、平和な心でいることが可能になります。

 

また、完璧主義は他の人だけではなく、自分にも及びますから、無理な要求を自分にもしているはずなんですね。

自分は良い人でなければいけない、完璧な人でなければいけない、完璧に振舞わなければいけない、人に迷惑をかけてはいけない、期待に応えなければいけない、不快にさせてはいけないってすごく我慢して、自分の心を無視して、人を怖がって生きています。

そして、理想通りに振る舞えない自分、理想通りの状態になっていない自分をいつも裁いて罪悪感を感じるということが起こります。

そして、今度は、自分はこんなに完璧に行動できるように、人を不快にさせないように頑張っているのにと、自分の期待通りに振る舞わない人を許せなくなり、心の平安を失ってしまうんです。

ちなみに、完璧で良い人でいようと思っても、「知覚できることには2極が生まれる」の法則から、どこか不完全な振る舞い、人を不快にする振る舞いを無意識にすることになりますし、ちゃんとやっていても誤解されるなどのことが起きたりします。

なので、“意図的”に人を不快にしないようにすることも、言い争いをしないことも、すれ違いが起こらないようにすることも不可能なんです。

それを避けようとすること自体が防衛になり、引き寄せることになるからです。

完璧な自分、完璧な他人、完璧な状態を自分の力でコントロールして作ろうとするという無理なことは早めに諦めた方が自分に優しくなれて、心が安らぎ、その結果、人間関係も状況も落ち着いていきます。

 

自分や他人、状況をコントロールして完璧にすれば、自分は幸せになれるし愛されるとエゴは自分に思い込ませてきましたが、実は真逆だったんです。

知覚できるレベルで「自我が考える完璧」というのは「あり得ない」と、早々に受け入れることで自分や他の人、世界を自由にすることでき、結果幸せになれるんですね。

完全無欠な人もいないし、聖人君主もいません。

ダメなだけの人も役立たずな人もいません。

暖かいだけの人もいませんし、優しいだけの人もいません。

冷たいだけの人もいません。

間違えたことをしてしまう権利も人にはあります。

そして、そういう不完全さを含めて、私たちは完全なんですし、その不完全さが人の役に立っていたりするわけです。

だからこそ、みんなありのままでいいんです。

いわゆる「良い部分」だけを自分や他者に求めていると、自分が幸せじゃありませんよね。

 

そして、1つの瞬間には必ず、試練と支援が同じだけあるのだとしたら、どうすべきかではなく「自分らしく」その時々を行動したらいいんですよね。

完璧な行動とか、理想的な行動とかを自分に求めても、その完璧は支援と試練の2つに分かれてしまうわけです。

どれだけ、支援というポジティブのサイドのみを提供したくても、試練サイドも生まれてしまうのだとしたら、何をしてもしなくても同じだということです。

そして、試練を与えることもある意味、サポートだし、愛なんです。

何をしても、しなくても同じだということがわかると、罪悪感もなくなり、「真実の道」が立ち現れてくる余地が出てきます。

 

 

今日は、エゴの都合にあうような完璧なものを知覚することはあり得ないので、完璧でないものを受け入れることで早いところ幸せになろうという話でした(笑)

自他に完璧を求めるのは、幸せを阻む、エゴの罠だったということです。