物事をどのように見るか、自分のために選ぶ

誰でもこんな話を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?

あなたは喉が渇いてコップの中になみなみと注がれたお水を飲みました。

さて、コップの中には半分の水が残っています。
その時、あなたは「あと半分も残っている」と思いますか?それとも、「もう半分しか残っていない」と思いますか?

 

これは、同じ物事をどのように見るか?という例でよく使われるお話ですよね。

人生にどんな経験が現れてくるか?

それは、本当にシンプルに物事をどのように見るか?ということであり、次の瞬間何を体験するかはまさに「今」物事をどんな風に見るか、という自分のその選択の現れなんですよね。

だからこそ、ポジティブに見ようとか、ネガティブはいけないとか、そういうこと以上に、物事をどんな風に見るか、というのは非常に重要なことなんです。

不思議ですが、その不思議な力を私たち一人ひとりは持っていて、例えばある人をどう見るか?によってその人を自由自在に変えてしまうことができるということなんですよね。世界に新しい法律を生み出すことだって可能なんです。

例えば、夫が自分のことばかりで愛がない。と判断してしまうとき、この人の愛のある部分はどんなところだろうか、そういう夫を見られるようになりたいです、とお願いすると、「ああ、そういえば息子とは時間をやりくりして遊んであげているなあ」とか思えてきて、そう見ていくと夫に愛がなくもないか・・・と夫に対する見方が変わり、実際にその愛があるバージョンの夫というのは「こちらが本当のわたしですよ」とその姿を見せてくれたりするんですよね。

でも、もしも相手に変わって欲しいから、この人を優しい人だと見よう。愛のある人だと見よう。と頑張って見ようとすると、根底にある優しくない人、という部分が連続していってしまうんですよね。

そして、「愛のない人」と誰かに目を向けた時、自分もその愛のない人のようだと、本当はそうではないはずなのに、そう認識してしまっているのと同じなんですよね。

 

それと同じで、テレビの登場人物でも家族でも同僚でも友人でも誰でも、この人のこんなところが素敵だと感じて自分のハートが喜んでいる時、それは「自分の中のその同じ部分を活性化」させてくれるし、自分を愛し認めていることと同じなんですね。

誰かだけではなく、美しい星を見た時、広大な海を見ている時、その美しさ、どこまでも広がる海の自由さ、果てしなさ、それを感じている時、それも、本当の自分とはこうした果てしなく自由な存在だったのだと思い出している時間になるのです。

 

眼に映る“世界”をどのように見るか。

それは、自分をどういう存在として認識したいか、ということと同じことなんです。

いいとか、悪いとか、そういうことではなくて、どうせなら「本当のことを見たい」「本当の見方をしたい」と思いませんか?

だから、もしも外の世界に何か欠けているように思えるものがあったり、美しくないもの、不十分なものを見てしまうときは、

本当の姿を見られるよう助けてください。

とお願いすることができると思います。

 

自分は、この世界に一時的にきている完全(神)な存在なんだ。この世界もこの世界の人たちも、自分という体もすべては高次の自分が作った世界。すべて自分のもの、自分の一部。

そう思って、世界を見つめてみてください。

世界の外から、自分の身体の外側から世界や自分を見つめてください。

見え方が異なってくると思います。

もっとずっと世界の美しさが見えるようになります。ずっと豊かな気持ちになると思います。

そうすると、本当にそうした驚きに満ちた豊かな経験が日々に増えていきます。

 

誰かが慌てていたり、怒っていたり、焦っていたり、不安がっていたとしても彼らは自分が作った世界に、自分のためにいてくれる人たちだと思ってみてください。

ゆったりした目で、自分のためにいてくれる自分が創った自分だけの「夢」の世界の登場人物だと思って見つめてみてください。

すると、相手が落ち着いて、豊かで優しい姿を見せてくれたりします。

本当の意味で自分のために行動してくれるようになります。

 

美しいもの、豊かなもの、優しいもの、愛に溢れたもの、喜びに満ちたもの。

そうしたものを見て、存分に感じて、自分とはどれほど偉大で素晴らしく豊かな存在であるのかということを日々感じていたいですね。