自分を他の人と比べて自分の方が劣っている、負けていると思うと、なんとも言えない気持ちが湧き上がってくると思います。
けれど、そのような気持ちを感じたことがない人は、この世界に一人もいないのではないでしょうか。
世界の大スター、マイケル・ジャクソンですら、黒い肌から白い肌になることを憧れていたんですよね。
この自分ではいけない。
こんな自分は受け入れられない。
このままで終わりたくない。
自分はまだ完成していない。
そうした思いは全て「罪」の意識と呼ぶことができます。
私たちが、外の何かを見て、劣等感を感じるのはむしろ当たり前のことだと言えます。
外側を「見る」とは、エゴが違いを見つけることだからです。
外側の何かを見ること=自分は足りていないということを認識するため。と言えます。
外側の何かや誰かに憧れの気持ちを持つときも、自分にはそれがないと思いますよね。
自分の方が勝っていると、自分の方が持っていると物事を見るときでさえ、その優越感の裏側には劣等感が張り付いています。
自分は他人に比べて足りていない。欠けている。
その心に湧き上がった痛みをずっと大切に抱えて「自分は人に比べて劣っている」と自分を常に責め続けるのも、湧き上がった痛みをすぐに押し込んで、自分を次の目標へと駆り立て続けるのも、自分や世の中なんてこんなもんだと痛みに気づかないふりをするのも、同じことです。
いずれも、罪の意識に囚われているからです。
私たちの多くはずっと、こうして生きてきたのではないでしょうか。
自分は劣っているという思いを感じたくないがために、優越感を感じるためにエゴが奔走していたのではないでしょうか。
いつか見返したい。人と差をつけたい。勝ちたい。見せつけたい。特別でいたい。
そうした思い、野心はすべて劣等感から生まれているんですよね。
そして、優越感を追い求めることで、より“貧しい”“足りない”“欠けている”自分を認識することになります。
劣等感からは、劣等感を感じる状況しか生まれないからです。
劣等感を感じたことのない人は誰もいないし、劣等感を“埋める”ことができた人もこの世界には誰もいないのではないでしょうか。
だからこそ、劣等感をリアルなものだと思わなくていいんですね。
劣等感というのは、本当の自分が誰かに比べて劣っているわけでも、欠けているわけでもないのに、自分を身体だと思い、今いる世界がリアルなものだと思った時に自動的に生まれるものだからです。
本当に誰かに比べて劣っているから、何かがおかしいから、自分は欠けていると思ったのではなく、
自分は神の一部ではないという思いを持ったことから、その思いを世界(自分)に投影し、それを見て、自分は劣っている欠けている。と認識しただけなんです。
ですから、劣等感を行動を使って「埋める」ということは誰にもできません。心にしか力がなく、認識している自分が本当の自分ではないからです。
行動で劣等感を克服できたように見える瞬間はやってくるかもしれませんが、またすぐに劣等感を感じるような対象を世界に見つけるでしょう。
では、どのように劣等感から抜け出したらいいのでしょう?
大切なことは、
欠けているという心(自分は自我であるという認識)が、そのような自分を、世界を、見せているだけということに気づきます。
そして、劣等感を埋めるために「行動」する、優越感を追い求める、という、終わりの来ないやり方、勝つことのできないやり方をやめます。
優越感や人に比べて特別だと感じられるような自分になることを追い求めることが、劣等感をリアルにするということを忘れないでいることです。
そして、自分自身のことを、他の人のことを、スピリットと一緒に見るようにします。つまり、他の人の中にも自分の中にも特別なもの(欠如や優越)を見ないようにすることです。
そして、
「自分自身を劣っていると見ている、その知覚を手放させてください。その代わりに完璧な神の子である自分を受け入れられるよう、神の光を受け取れるよう、それを知覚できるよう助けてください」
とお願いします。
他の人と比べて辛くなってしまうときは、いつでもこのお祈りをします。
エゴ(自我)にとって、特別な自分でなくなる事、個性がなくなることは大変な脅威です。
けれど、人と比べて特別になるのではなく「自分が本当に輝く道」はそれしかないんですよね。