自死からいただくメッセージ

昨日は、以前から見たいテレビがあったので、久しぶりに早い時間からテレビをつけていました。

夜の7時くらいからずっと、志村どうぶつ園を観ていて、元気な頃の志村けんさんとプリンちゃんを観ていてなんか涙がでるな・・・と思っていたら、次の番組で俳優の三浦春馬さんの訃報を知り、最近のコロナにまつわる社会情勢といい、悲しい気持ちや不安な気持ちになっている人、生きる意味とか、これからどうしていったらいいのだろう、そんな風に深く悩んでいる人もきっと増えていくだろう、と思っていました。

 

若い人で自死を選ぶ人の数というのは、日本は世界でトップクラスに多いそうです。

それで、自死を選んだ人に対して、多くの人は「なんで・・・」とか「死なないですんだんじゃないか」とか、「もっとこうすればよかったのに」とか、まるで、彼らの選択が間違っているとでも言いたげのような反応をするんですよね。

私がいつも思うのは、自死ってそんなに悪いこと?

って思うんです。

自死を選びそうな人に対して、「自分が死んだ後、残された人たちは悲しむし、残された人たちの気持ちを考えよう」みたいなことを言う人とかたまにいるけれど本当にナンセンス極まりない。

そう言う人には、「あなたの食べようとしているそのマックのポテト、そのポテトを食べて動脈硬化になって、血管が詰まって、倒れて亡くなったら残された家族はどうするんですか?ポテトを食う前に、残された家族のことを考えよう」と言ってあげたい。

体に悪い食べ物とわかっていて摂取してしまうのも、薬も、お酒もタバコもワーカホリックも、何かに依存することは全部、ゆっくり自殺しているのと同じです。

 

そもそも、死を自分で選ぶことは悪いことなんですか?

と問いたいし、何か勘違いをしてそうしてしまったとか、彼らが死ぬタイミングを間違ったとか、そうは思いたくないんです。

彼らはその時、選びうるベストな選択をしたんです。

そしてそれをただ受け入れ、その選択を尊重することが私たちの唯一できることだと思うのです。

どんな理由であれ、死というのは「“この身体”で生きることのお役目が終わった」と言うことで、本人が“この身体”は終わりと決めたんだから、周りがもっとできたのにとか、もったいないとか、言う必要がないんですよね。

それは例えば、現役引退したイチロー選手とかに「もっとメジャーで戦って欲しかったですよ〜」とか言うのと同じで、子供の頃から何十年もの間いろいろなものを犠牲にしても野球のために必死に生きて、もうやり切った、もう十分やったと思いたい、でも、もっとやれるならやりたかった・・・そういう葛藤もきっとあるんだろう、ということに思い巡らせることができれば、そんな言葉出てこないと思うんですよね。

アメリカの有名なオペラ歌手、ビバリー・シルズさんが引退後、いつもインタビュアーたちに「まだ歌えたんじゃないですか?」と聞かれるたびに、首にかけたネックレスに「I already did it(もう私はやり切った)」と書いたものを黙って見せていた、と聞いたことがあります。

 

この身体で生きることを「もうやり切った」と本人が思っているのに、まだ頑張れよ!なんて、もっと、頑張って欲しかったなんて、誰も言えないんです。

それが、子供であっても、必死に頑張って生きて、もう頑張れないって思ったからそれを選んだのだから。

 

スポーツや演じること、歌うこと、働くことなど、外から見ることだけが頑張ることではなく、誰もが心が擦り切れそうになるくらい、頑張って生きているんじゃないでしょうか。他の人から見てわからなくても、どんな人も限界をすでに超えて頑張っているのではないでしょうか。

 

生きることはみんな辛いけど、それでもみんな頑張っている、だから君も頑張らないとダメだ。なんてとてもじゃないけれど、私には言えないんです。

身体にしがみついて頑張ることをやめれたなんて、勇敢だとさえ思います。

 

もう、ゆっくり休んでください。これまで頂いてきた愛に、心から感謝します。

私は亡くなられた人たちにはいつもそう伝えてきたし、これからも死を選ぶ人たちにはそうお伝えしたいです。

 

そして、今、ここにいる私たちは、体を脱ぎ捨てた彼らが「もう無理に頑張らないこと」を選択したように、「もう無理に頑張らない」ということを一緒に選択できるのかもしれません。

もう無理に頑張らないでいい。

それが、彼らの魂(私たちの源)からのメッセージだと思うのです。

自死を選んだ人たちのその選択を受け止める、というのは、自分の中にもある同じ気持ちをしっかりと受け止めるということでもあるのではないでしょうか。

君らの分も頑張って生きるよ、というのではなくて。

無理に頑張らないことだけが、多くの人が日々知らず知らずのうちに行なっている“ゆっくりと自死へ向かう”ことを止める方法だと思うのです。

それが、本当の意味で、「彼らの分も生きる」ということではないでしょうか。