自分に慈しみの気持ちをもつ

実は、私たちにとってもっとも難しいことの一つが「自分に対して慈しみの気持ちをもつ」ということかもしれません。

自分の失敗や人としての不完全さを笑い飛ばす。

という風にも言えるかもしれません。

 

それが例えば誰か他の人への怒りだったとしても、それはうちなる罪悪感の投影ですし、外の状況への心の揺れ、イライラというのもすべて、自分の中の潜在的な罪悪感の投影なんですね。

それくらい、私たちの心というのは罪悪感で打ちのめされていると言ってもいいかもしれません。(身体を持って生きているということは、誰もが根源的な罪悪感を持っているということ)

そして、私たちは実際にその罪が存在していると信じ込み、それゆえに自分は処罰に値すると信じているのです。

自分には罪があって、だから自分に慈しみの気持ちを向ける資格なんてない、自分に優しくしてはいけない、あんなことをしてしまったのだから・・・と思っていたりする節があるんです。

 

何だかとてつもなく酷いこと、取り返しもつかないようなことをしてしまった、誰かを苦しめてしまった・・・

もしも、そんな風に思った時は、その行為によって本当に誰かを傷つけることなどなかったということを思い出してください。

その行為によって、自分や他者の誰の何も損なうこともありませんでした。

 

こう考えてみてください。

誰もがすでにあった心の状態を外側に投影してそれを経験しているだけだとしたら・・・

互いに罪悪感という悪夢を見ていただけではないでしょうか。

一つの悪夢というドラマに、加害者も被害者もいません。

お互いに、お互いのその罪悪感の心がその悪夢を作り出したんです。

 

こう見ていくと、自分が被害者だというドラマも存在しないことになります。

そして、その出来事によって自分の何かが損なわれるということも起きなかったということになります。

 

自分の行動が他の人の心に愛以外の何かを植え付けることはできないし、他の人の行動が自分の心に罪悪感や無価値観などを植え付けることも不可能だということです。

 

私たちの本当の姿は、何によっても、誰によっても損なわれることはないほど、パワーがあり、価値があり、神聖で、美しいものです。

 

 

些細なことから、重大だと思われるようなことまで、生きていればいろんな“ミス”をすることがあると思います。

嫌味を言ったり、小さな意地悪をしてしまった人もいるかもしれません。

裏切ってしまった人もいるかもしれません。

誰かを責めてしまった人もいるかもしれません。

誰かを裁いたり、実際に手を上げてしまった人もいるかもしれません。

犯罪行為をしてしまった人もいるかもしれません。

約束を守れなかった人もいるかもしれません。

誰かに迷惑をかけてしまった人もいるかもしれません。

嘘をついたり、不正直になってしまった人もいるかもしれません。

 

それでも、すべて「怖れ」があったがゆえにしてしまったことなんですよね。

人として、罪悪感や様々な怖れを抱えて生きていくって、本当に骨が折れることです。

 

出来事をスピリットと一緒に見て、スピリットはどんな風に見るのか、解釈をするのか、自分に慈しみの気持ちをもてるよう、スピリットに助けを求めたいですね。

 

ちなみに、誰かの「ミス」というのは「愛を求める声」とみるとよいかもしれません。ミスそのものも、自らのミスをかばう言い訳も、すべて「助けてほしい」という声なんですよね。どれだけ開き直っているように見えても、平気そうに見えても、「ミス」をするとき、一時的に自分が誰であったかを忘れて、心の中は罪悪感(無価値感や欠乏感、怖れ)で苦しんでいるんです。

 

人であれば誰でもが、いつでも、こうした状況に陥ることがあると思います。

だから、もっとずっと自分をやさしく見つめて良かったんですね。