罪悪感がないと楽に豊かさがやってくる。罪悪感を消すためには?

私たちの多くは、小さな頃から自分で気がついていなくても「罪悪感」を感じてきたことがあると思います。

そして、その罪悪感というのが、宇宙(天)から有り余るほど流れてきている、豊かさや愛などがやってくるパイプを詰まらせてしまうんです。

本当はあらゆる良いものが「何もしなくても」「頑張らなくても」自分に向かって流れてくることが自然なのに、そこに罪悪感があると「幸せを受け取りません」と、流れを遮ってしまうんですね。

 

例えば、過去に付き合っていた男性を傷つけたと思ってずっと罪悪感を感じていると、そのあと、パートナーができにくかったり、自分を傷つけるようなパートナーを選んだりしてしまうことがあります。

本当は愛されて、大切にしてもらってもいいのに、自分が罪悪感を感じていると、愛を受け取れなくなってしまうんですよね。

 

他にも、母親がいつもお金に苦労して長時間働いていることに子供の自分が罪悪感を感じてきたとしたら、本当は好きなことで楽しみながらお金を稼いでもいいのに、自分にそれを許せず、いつもお金に困窮していたり、自分もまた苦労して働いてお金をもらっているかもしれません。

罪悪感があるとなぜか苦労を選ぶ、大変な思いをしなければ幸せになってはいけないと信じてしまうんですよね。

 

私たちの多くは小さな頃から、それが「罪悪感」と知らなかった頃から、自分のままでは居心地の悪いような、自分は悪い子だと感じるような、そういう思いを持ってきているんですよね。

他の兄弟姉妹はできるのに、自分はできないとか、それだけでも罪悪感を感じる場合もありますし、クラスで誰かがイジメられていて、自分はみているだけだったとしても、止められなかったことに罪悪感を感じてきたかもしれません。

大人になってからも、友達は結婚して子供がいるのに自分は子供ができないことで罪悪感を感じる人もいるかもしれません。

子供が不登校になって、自分の育て方がどこか悪かったのか、と罪悪感を感じるお母さんもいるかもしれません。

成績が平均より低いとか、太っているとか、もうこんな年齢になってしまったとか、他の人より稼げないとか、とにかくありとあらゆることに罪悪感を感じたりするんですね。

 

不平不満だけでなく、罪悪感も私たちの得意技と言えるかもしれません(笑)

では、この罪悪感を乗り越えるためにどうしたら良いのでしょうか。

 

まず、罪悪感を生み出す大きな原因の一つというのは、

『正しくなければならない』

という観念だと言えます。

これは正しいこと、これは間違ったこと、そういう基準があって、間違ったことをしてしまったと思った時や、正しい状況にいない時、罪悪感を感じるんですよね。

また、この世界では、他の人や自分の期待に応えられた時は「正しい」、応えられない時は「間違っている」とされます。

 

正しくなければ、愛されない。

正しくなければ、価値がない。

正しくなければ、幸せになってはいけない。

だからこそ、正しくないものは裁かれるべき。拒絶されるべき、と思うんですね。

そんな風に、私たちのほとんどは正しくないことに対して、ものすごい罪悪感を持っているんです。

テレビのワイドショーで、犯罪者や不倫をした芸能人がものすごく厳しい声を浴びていたりしますよね。

こうした人たちに厳しい声をあげる人ほど、「自分は頑張って我慢して、正しく生きているのに」という思いがあると思います。

自分はこんなに頑張って、我慢して、間違えないよう気をつけて生きているのに、正しく生きていないヤツが許せない!というわけなんですよね。他の人を厳しく裁いてしまう人ほど、罪悪感が強いんですよね。

罪悪感を感じやすいからこそ、「正しく」いなければと思うんですね。でも、本当は「正しく」いることにこだわるから罪悪感を感じるんですよね。

 

けれど、「正しい」ことってなんでしょうか。

絶対的な「正しさ」なんてないんですよね。

殺人はいけない?絶対にいけないこと?安楽死を望む人は自分の自死を助けてくれる人に感謝するはずです。そして、助けた人を裁く人は誰もいません。戦争ではどうでしょうか。

太っている方がモテる国もありますし、日本の若い人はこぞって二重にこだわり、ノーズシャドーを入れて鼻が高く見えるよう頑張りますが、のっぺりした顔で一重の黒髪が西洋ではアジアンビューティーとして人気がありますよね。

そう考えると、絶対的に「正しい」こと、絶対的に「間違った」ことということはないんですよね。

 

ゲームばっかりやってたらいけない?

ゲームばっかりやってた人たちの中には、プロゲーマーと呼ばれる選手になり、年間に数千万円も賞金を稼ぎ、スポーツのオリンピック的な意味を持つ世界大会に出場する人もいるそうです。 ゲームばかりすることと、サッカーばかりすることに違いはない気がしませんか。

 

いつでも優しくて、なんでも受け入れてくれる人が正しい人?

いつでもなんでも受け入れてもらっていたら、依存的になり、いつまでたっても人にやってもらって、自分の中のパワーを忘れ去ったまま、自分の人生を生きることのできない人間を作り出してしまうかもしれません。

 

冷たく厳しい人は間違った人?

突き放すことで、自立を促しているのかもしれません。自分でできるようになることで自分に自信が持てるようにサポートしているのかもしれません。

ちなみに、私の経験になりますが、冷たい対応の人や場所というのは「こっちはあなたの場所じゃないよ」「次のステップに進みなさい」と教えてくれていたことがほとんどです。その時は、寂しい気持ちになりましたが、今になると感謝です。

 

私たちは、

〜はいいこと、〜はいけないこと。

そういう、基準に自分自身や他者を当てはめて、罪悪感を感じたり、自分や他の人を責めたり、裁いたりしているんですよね。

それをしていると、自由にエネルギーが流れないんですよね。

いつも、裁かれるのを怖れて、人目を気にしたり、他人に気を使ったりしすぎて、自分を抑えて生きると、本当は表現する必要のあるものが外に出てこれないんですね。

同じように、他の人を裁くと、自分にもそれを禁じることになり、創造性のパイプが制限され、不自由になり、自分を抑え込んでしまうんですね。

 

だから例えば、ZOZOTOWNの前澤前社長とかを「自慢ばかりして、お金の使い方が下品!」とか言って裁いていると、お金持ちになることや、世界に自分を発信すること、自分が好きなようにお金を自由に使うことも禁じているのと同じなんですね。

 

私たちの人生というのは完璧にデザインされ、本当によくできていますから、

自分がより自由になり、自分を抑えずに済むように、ベストなタイミングで目の前に人が送り込まれてきているんですね。

だから、「〜をする人が許せない」とか「それは正しくない」と相手を裁きたくなる時に、裁かないでいられると、自分にもそれと同じエッセンスを含むことをすることを許し(過去にしたことを許し)自分を罪悪感から自由にして、自由に行動させてあげることができるんですね。

ちなみに、これは嫌な人から逃げてはいけないとか、左の頬を叩かれたら右の頬も・・・みたいなそういう聖人になりなさいみたいな意味ではまったくなく、その人と一緒にいるとか、いないとか関係なく、

大切なのは、自分の心が自分や誰かのしたことを裁かないことなんです。

「これはいけない」「あれはいけない」と誰かのしたことや、していることを正しくないと言っている時、自分を罪悪感の鎖で縛り、自分が自由に生きることを妨げているんです。心がざわざわし、みる人、関わる人をあれこれ裁いてジャッジしている時というのは、決まって何かしらで自分が罪悪感を感じているんですよね。

 

嫌な人や自分を傷つける人と無理に一緒にいなくてもちろん良いと思います。ただ、心が誰かや何かを裁いていない。という部分が大切で、「あの人はこんな行動すべきではない」とかそういう裁きがない状態が、自分を罪悪感から自由にするために大切なことなんですね。

 

この世の中には、絶対的に正しいことや間違ったことがある。

だから、自分も他人も正しくなければいけない。愛され、認められるためには、正しくなければならない。

という凝り固まった観念を手放すだけでも、罪悪感からずっと軽い状態になると思います。

絶対的に正しいことも間違ったこともない。

だから、

自分にも他の人にも正しさや正しくいることを求めなくていい。

自分のその時、その時の気持ちを大切にして生きることに罪悪感を感じなくていいんです。

自由に生き、内側から生まれてくるものを自由に表現していいんです。

 

ちなみに、「間違った行動をしてしまった」と自分の頭が考えて、自分を責めてしまうような状況の時でも、その行動はどこかで誰かの役に立っています。自分自身の役にも立っているかもしれません。

過去を振り返るとき、頭では、他の行動ができたのにと思うこともあるかもしれませんが、その時に他の行動ができた可能性はありません。その余裕があってそれをできたとしたら、それをしているはずですよね。だから、罪悪感というのは本当に必要ないんですね。

 

私たち人間というのは、自分がこれまで見聞きしたことを前提に善悪、正誤の判断をしていますが、究極的に、それが善なのか悪なのか、正しいのか間違っているのかを判断することは不可能だと言えるでしょう。

例えば、「コロナウイルスは絶対的に悪いもの」と判断したとして、もし、これから大規模な無差別テロを都心で起こそうと綿密に計画している人間がコロナウイルスに感染して病に倒れたとすれば、都心に出入りしている人にとっては「コロナウイルス本当にありがとう」となることも考えられるんですよね。

 

私たちは本当は何もわかっていない。本当は何も知らない。

のかもしれません。

だから、自分や誰か、何かをジャッジしてはいけないのではなく、

ジャッジしようがない

のかもしれません。

そして、結局のところ、起こることは究極的には全て愛で、正しいことなのかもしれません。

だから、何の心配もいらないし、安心していていいのかもしれません。