24時間テレビを見ていて、やっぱりそうなんだよね、
と思ったことがあったので、少しシェアさせてください。
今年の募金ランナーは高橋尚子さん、通称Qちゃんと交友のある方達でした。
Qちゃんは足が痛かったようで、「どこかに『痛み』があると、それをかばうように走ってしまうので今度は、他の場所にどんどん影響を及ぼして痛みや故障が出てきてしまう」
そんなふうに何度も、何度もお話しされていました。
私たちの身体ってそうですよね。
例えば、右の奥歯に虫歯ができて痛みが出てくると、左の歯ばかりを使って噛むようになり、顎の骨格が歪み、そこから肩こりや腰痛が出始める・・・
そんなふうに、「痛み」がある場所を“かばう”ようになると、そこからどんどん歪みが出て、痛みが広がっていくんですよね。
Qちゃんのお話を聞いていたら、
「罪悪感」を土台にして生きると人生がズレていく。
と、奇跡のコースのティーチャーから教えていただいたことを思い出します。
自分はひどいことをしてしまった。
自分は台無しにしてしまった。
自分は他の人と比べて足りていない。
自分は不十分。
それらを「罪悪感」と呼びますが、それを“訂正しないまま”「罪悪感」を土台として生きると、全部がズレていってしまう。
罪悪感って感じたくないですよね。心が痛いですよね。だからその痛みを感じたくないんですよね。誰かを傷つけてしまった、自分にはできない、自分は人に劣っている、そういう痛みを感じたくなくて、その痛みを“かばう”ようになると、やみくもに何かを達成しようとしたり、急いでやろうとしたり、人が見ていないところでやろうとしたり、欠けているものを埋めようとしたり、そうやって、ズレていくんですよね。
自分は誰かによって損なわれてしまった。
自分が今、こんな状態なのは、傷ついているのは誰かのせい。
自分はこんなに苦労して、辛い思いをして生きてきた。
人にはわからないような苦労をして生き続けてきた。
そんなふうに「痛み」をずっと大切に持ち続けている時も、
自分はこんなに素晴らしいことを成し遂げてきた。
こんなに輝かしい道を歩んできた、栄光に見えるものを掴んできた。
そんなふうに「過去の“いい”ドラマ」をずっと大切に持ち続けている時も、
どちらも、同じように幸せを妨害するものになるんですよね。
そのどちらの「ドラマ」も“わたしたち”の人生を歪ませていくんですよね。
それなのに、そのどちらも自分(自我)にとっては大切だし、とっても大事なんですよね・・・
というのも、その「ドラマ」が何かに役立つと思っているからなんですよね。
欲しいものを得るには・・・愛でもお金でも賞賛でも、自分で手に入れなければと信じているものをを獲得するために、「ドラマ」が役に立つって思い込んでいるんですよね。
例えば、悲惨なドラマ、こんな人生を乗り越えてきた、苦労してきたというドラマでも、それは、誰かから愛をもらうために、賞賛をもらうために、自分は人に劣ってはいないと思うために役立つと思っているし、素晴らしいドラマで得た、トロフィーやなんらかの資格や経歴が自分がこの世界を生き抜くための「武器」になると思っているし、お金を得ることに役立つだろうって、思っているんですよね。
でも、私たちというのは、「ドラマ」を超えている存在だし、それ以上のものだから、どんなドラマもいらないし、ドラマにしがみついている間は、罪悪感を持ち続けているから、むしろ足かせになってしまうんですよね。
ドラマの自分を自分だと思って、大切に「痛み」を持ち続けている間は、そのドラマを繰り返し再生し続ける人生が続いていくしかないんですよね。
ドラマにしがみつくことは、自分の偉大さを信頼できていないということだし、何よりも、自己の偉大さ、全知全能の力が怖いんですよね。
これがわたし、こんなふうに生きてきたのがわたし。
そういう細々としたドラマの自分というのは、「本当の自分」とは無関係なんですよね。
私たちが大切にしてきた「金メダル」は自分の素晴らしさや劣っていないことを証明してくれるものではなかったどころか、「本当の自分」の輝きを隠してしまうものだったということです。
私たちの多くは、「痛み」を感じないように、感じないように、痛みをかばうためにずっと生きてきているんですよね。
「痛み」を感じたくないから、いろんな願望を生み出して、欲しがって、それを叶えようとしたりするんですよね。
でも、痛みをごまかすためのあらゆる行動は、痛みに行き着くんですよね。
だから、「痛み」自体を手放してしまったら、
もう「痛み」を感じなくて済むし、
痛みをかばうためにもう頑張らなくてよくなるし、
だからこそ自分が思っていた以上の「自分」「幸せな夢」を人生の中で見ていくことができるんですよね。