満たされない気持ちをどうしたら良いのか?

「なんだか満たされない」「満足感が感じられない」そんな時、多くの人が思う事、それは「枯渇(欠乏)」しているから・・・そう思うと思うんですね。私もそう思っていたことがあります。

満たされないのは、愛が外側からやってこないから、十分なお金がないから、欲しいものが得られないから・・・そんな風に思っていたんですね。

ある日、満たされない、本当に満たされない、この思いをどうしたらいいんだろう、そんな風にどうしようもない思いを抱えて散歩をしながら、その満たされない感情とともに一緒にいたんですね。

そうしていると、ふと気がついたことがあったんです。

満たされないのは、自分の中にあるエネルギーが上手に使えていないから、もっと言えば、自分の中の愛が外側に出たがっているのに表現を堰き止めていたからではないだろうか・・・ということです。

この日は家に帰り、弾きたかったピアノを弾き、ブログを書くことで次から次へと溢れるアイディアや気持ちを表現し、とても満たされたことを覚えています。

私たちの中には例外なく「愛」が存在しているんですね。無尽蔵の愛です。神とつながっている光の源からやってくる愛です。シンプルに言えば、何かを好きだという気持ちです。

常に私たちの中には無限の愛があるのですが、その出たがっている愛が出られなくなっている、その辛さ苦しみが「満たされない」思いなのではないかということではないかということです。

外側に愛を表現することができない苦しさ、表現して誰かと繋がれない寂しさ、それが「満たされなさ」なんだと思うんですね。

自分の中にある「愛(クリエイティビティ)」が出せないというだけでも苦しいことだと思うんです。

満たされない時というのは、自分の中には「こういう形になったらいいのに」というものがあることが多く、そうなれたら初めて自分は愛を思い切り表現できるはずだと思っているんですね。

愛というのは、クリエイティビティと言っても良いと思います。表現したい何かがあるんです。美しさかもしれないし、喜びかもしれないし、笑いかもしれないし、何かがあるんです。

でも、こんな自分の表現する愛やクリエイティビティには価値がないのかもしれない、こんなスキルじゃダメなのかもしれない、誰も喜んでくれないかもしれない、まだ足りないのかもしれない、お金にならないかもしれない、そんな風にエゴが純粋な思いを捻じ曲げてしまうんですね。

どんどんどんどん、エゴが入り込んで、やれ、こんなことしている場合じゃないとか、来月の支払いはどうするんだとか、こんなことじゃ稼げないとか、あの人はあれだけ活躍しているのにとか、あの人にはもう子供がいるのにとか、そういうエゴの声を聞いていると、愛を表現することすら忘れていってしまうんです。

満たされない気持ちが強い時、きっと先ほども書いたように「こうなったらいいのに」「この場所で表現したい」「こういう形で表現したい」「この人に表現したい」「この人に愛を受け取ってもらいたい」のように自分の中に理想としている形があって、それが叶っていない時なんですよね。

内側にある愛、好きという気持ちをそのままそこでストレートに表現することよりも、どこでそれを表現するか、それによって何を得られるか、それによってどう思われるか、そんな風に色々な考えが割り込んできて歪めてしまうんですね。

愛(クリエイティビティ)をただ表現して外へと出してあげることで完結するのではなく、そこからちゃんと見返りは得られるのだろうか、愛は得られるのだろうか、承認は得られるのだろうか、お金は得られるのだろうか・・・となってそれを考えることで、どんどん自分が表現したいことではなく、他人の目を気にしたものに歪んでいってしまったり、表現そのものをやめてしまったりするんですね。

それは、つまり「閉じている扉」に向かって愛を叫んでも意味がないと思っているということですよね。ただ、好きだからする。好きだから好きでいる。それだけじゃ意味がない。と思っているということですよね。

確かに、「閉じている扉」に向かって愛を叫ぶことも、「閉じている扉」に向かって黙り込んでしまうことも辛い割にはあまり意味がないことです。

けれど、「閉じている扉」のそばに必ず、必ず、必ず「開いている扉」があるんです。

閉じている扉の前で黙って立ち尽くすのでもなく、閉じている扉の前で泣き叫ぶのでもなく、閉じている扉を無理やり蹴破ろうとするのでもなく、

開いている扉に入っていき、愛を表現するのです。

することはそれで十分です。

なぜなら、閉じている扉の先に待っている世界も開いている扉の先に待っている世界も同じ場所だからです。

だったら、開いている扉がからすんなり入っていけばいい。

もっと言えば、閉じている扉ルートというのはエゴのプランであることがほとんどなんですね。過去にどこかから聞いたことや親の期待だったり、苦痛を避けて快楽を選びたがる怖れるエゴのプランだったり、プライドだったり、自信のなさだったり、いろんなエゴの怖れから生まれたプラン、通り道なんですね。

だから、スピリチュアルな世界ではよく言います、頭で考えたプランではなく直感に従いなさい。と。

自分だけのプランがあるんです。宇宙(神)が用意しているベストなルートがあるんです。そのサインが「開いた扉」です。

目の前に開いている扉に入っていく。

「あちらからくる」扉に入っていく。

閉じた扉を前にして、扉をこじ開けようと苦しむ必要なんてなかったんです。

すぐそばで開いている扉に入っていき、思い切り愛を表現してください。

 

このことを書いていたら思い出したことがあります。

左手のピアニスト舘野泉さんです。現在、83歳で世界各国でリサイタルをしたり、天皇陛下の前で演奏をしたりとご活躍中です。確か、NHKでも特集されていたことがあったと思いますし、高校の教科書にも登場するそうなのでご存知の方も多いのではないでしょうか。

舘野さんは、ピアニストとして活躍していた中、脳の病で右手が不自由になってしまったそうです。病に倒れてから一年後、息子さんから左手だけで弾く楽譜を渡され、それ以来本格的にこの分野を開拓していこうと決意し、現在は左手のピアノ作品によるリサイタルを開き、左手ピアノ曲の普及に努めているそうです。

世界を飛び回るピアニストとして活躍していた時に、右手が自由に動かなくなってしまえば多くの人は絶望的な気持ちなると思います。これまでのようなピアノ曲を弾くという機会はなくなってしまったけれど、目の前には新しい扉が開いたんですね。息子さんが持ってきた左手だけの楽譜です。

舘野さんはこう語ります。

「右手を奪われたんじゃない、左手の音楽を与えられたのです」

絶望するよりも、新しいことばかりの毎日が楽しかったと語ります。左手一本に集中したことで、むしろ音楽の本質が見えてきたそうです。

舘野さんが語る通り、右手が奪われたのではなく、左手の音楽を与えられ、音楽への理解が深まり、何よりも世界に勇気や感動を分かち合っていく存在となったんですね。

素晴らしい音楽だけではなく、もっと先にもっともっと受け取れるものやもっと分かち合えるものがあったんですよね。

私たちの人生は何も失うことはなく、むしろ増えていくばかりなのかもしれません。

音楽が本当に好き。音楽がやりたい。

その想いを、何かを理由に諦めなかった。好きな気持ち、やりたい気持ちを何かを理由に諦めなかった。それが奇跡を生んだのかもしれません。

 

「好きな気持ち」というのは歪めたりしなければ、それは純粋な愛なんですね。

そこにいろんなものをとってつけたり、こうでなければならないとか、こうあるべきだとか、認められたいとか、安全でいたいとか、人に勝たねばとか、そういうことを考えていくと、純粋な気持ちから表現されるはずのものが歪められ、本当の自分が満たされないんですね。

認められたいとか、金銭的に安全でいたいとか、世の中で成功したいとか、それがいけないわけではなく、そちらを優先すると、自分より世の中や他人やお金を優先していることと同じなので、本当の自分が満たされないんです。そして、ハートが満たされないエネルギーだから、そういう世界を見るんですよね。

ただ、好きなものへの「純粋な愛」を大切にして、それを捻じ曲げずに表現していれば、その愛そのものがすべてを取り計らってくれるんですね。なぜなら、私たちの「本当の道」とは行動ではなく心の道だからです。世界を創るのは、行動ではなく「心の想い」だということを今一度思い出したいと思います。

「純粋な愛」が心にある状態のことを奇跡と言えるし、その心があるがゆえに見えてくる世界や流れ、それを人々は奇跡と呼ぶんですね。