怒りや罪悪感を軽くしたい時

年末から、カルロス・ゴーンさんが、保釈中にレバノンに逃亡してしまったことがずっと話題になっていました。

多くの人の反応とは、「悪いことをしたのに罪を償わずに逃げてずるい」といった思いのようでした。

私たちというのは、

何か悪いことをしたら罰を受けるのが当然だ。

と思っているのではないでしょうか?

 

そもそも、「悪いこと」の定義が曖昧ですが、ここでは「自分や他者にとって正しくないと思っていること」ということにしてみます。

例えば、私たちの多くは子供の頃から「遅刻」しないように教えられてきます。もし遅刻すれば場合によっては、罰金やペナルティがありますね。

遅刻しないように生き、遅刻した場合は罰せられると教えられていれば、今度は遅刻する他者を罰したくなるのが自然です。

この世の中にはありとあらゆることに「正しさ」があり、表には見えていなくても、誰も彼もが「正しい」行動ができない誰かを、自分を、心の中で裁いているように思いませんか。

その「正しさ」とは、いったいなんでしょうか?

実は「正しさ」とは、愛の基準ではなく、私たちの怖れの基準なんですね。

そして、自分が思っている正しさとは、自分や誰かへの「期待」ですよね。

誰かが自分にとって正しくいてくれれば、自分は安心だと思い込んでいるんですね。また、誰かが自分にとって正しくいないことが原因で自分は不幸だと思い込んでいるんです。

私たちの世の中はこの独りよがりな「期待」であふれていて、親なんだから、子供なんだから、娘なんだから、息子なんだから、先生なんだから、生徒なんだから、友達なんだから、お客さんなんだから、店員なんだから、セラピストなんだから、ヒーラーなんだから、警察なんだから、政治家なんだから、妻なんだから、夫なんだから、パートーナーなんだから、後輩なんだから、先輩なんだから・・・

そんな風に、自分や他者に「正しく」行動することを求め、自分が期待しているありとあらゆる役割を自分や他者に負わせて、それに沿うことのできない自分や他人を厳しく裁いているんですよね。

相手には自分にとって「都合の良い」存在でいてほしい、自分も他者にとって「都合の良い」存在でいることで、好かれよう、愛されよう、お金などの欲しいものを得よう。

そんな風に「ありのまま」の自分をずいぶんと歪めていき、「ありのまま」で他者が存在することを許さないような世界を生きていると思いませんか。

こんな風に考えてみると、怖れ(エゴ)の基準にそえない自分に対しての裁きの思いが罪悪感であり、怖れ(エゴ)の基準にそえない他者に対しての裁きの思いが怒りと言えるのではないでしょうか。

 

ここに、罪悪感と怒りから解放される鍵があります。

一つ一つの行動を「許す」というのは本来はありえないわけですね。

なぜなら、その行動が許されざるものと決めつけているのが「エゴ」だからです。

その行動が正しいか間違いを決めているのが私たちの「エゴ」だからです。もっとわかりやすく言うと、「小さな見方」しかできない部分が、ある行動に対して良いと決めつけたり、悪いことと決め付けたりしていると言うことです。

その行動がなんの役に立つのか、どんな結果を招くか、というのはもっともっと大きな計画の中にあり、その計画とは「愛」という宇宙のプロジェクトです。

エゴで見た場合に善悪に分けられる全ての行動であっても、結局のところ、愛の計画の中にあるんですね。

エゴが自分や他者を断罪しようといかに騒ぎ立てようとも、エゴの目から「悪」に見えるようなことすら、すべての人が愛へと戻っていくためのきっかけなんです。

 

こんな話を聞きました。

アメリカでは私たちが思うよりも、白人と黒人の間の争いが激しいそうです。

一時期、白人の警官によって黒人の無抵抗な子供や男性たちが射殺されるという事件が相次ぎ、黒人の人たちによってデモなどが行われていましたよね。

こんなことが起きていた中、ある全く無実の黒人の男性が、自分の一つ下の階に住む白人の女性警官の勘違いによって射殺されるという事件が起こりました。

自宅でくつろいでいたところ、部屋を間違えて入ってきた白人の警官によって、強盗と間違われ無抵抗にも関わらず撃たれてしまったそうです。

この事件までアメリカでは暗に白人が優位の世界になっており、白人の警官によって黒人が不当に殺められても殺人罪として有罪判決が出ることはなかったそうです。

しかし、この事件が初めての有罪判決となり、驚くことにこの事件の被害者の弟さんが「あなたを裁きたいとは思っていないよ」と白人の女性警官をハグしたのです。

この模様は全米に放映され、多くの人の涙を誘い、白人と黒人との間の壁を少しずつ溶かしていったそうです。

 

なんの罪もない人が無責任な警官のせいで亡くなってしまったのではなく、勇敢な2つの魂が長く続く大きな差別の問題を解決へと導く役割を担った。とみることができないでしょうか。

 

怒りや罪悪感とは、結局のところ誰かが作った基準、自分が作ったエゴの基準に沿って自分や他人が生きていないことへの裁きの思いから生まれているんです。

だとすれば、その怖れの、そのエゴの基準こそが真実ではなかったと気が付けば良いのではないのでしょうか。

怖れの基準に沿えない自分や他者を許すというよりも、「すべての基準」こそが嘘だったということに気が付けば良いのではないでしょうか。

だからこそ、その基準に沿えない自分や他者を「罰する必要はない」ということに気が付けば良いのではないでしょうか。

「罪」自体ないのだから、罰もないのが当然です。

ミスがあれば、訂正するだけです。

 

〜は〜でなければならない。〜のくせに〜をする。〜のくせに〜をしない。

というすべてが怖れの基準です。

間違ってはいけないとか、傷つけてはいけないとか、不快にさせてはいけないとか、助けなければいけないとか、優しくしなければいけないとか、完璧でないといけないとか。

そういうすべての〜でなければいけない。というものが怖れの基準なんです。

 

〜でなければならないものはない。

ということに気がつけば、罪悪感や怒りから自分を自由にしてあげることができます。

 

エゴの声は、「〜でなければならない」に誰もが従わなくなってしまったら世界は大変な場所になってしまうと囁きかけてくるかもしれません。

けれど、逆です。

エゴの声、怖れの基準にみんなが従っているから我慢がたまり、ストレスで怒りや復讐心が蔓延し、おかしな世界になるのです。

愛の声、愛の基準に従えば世界は天国になるのではないでしょうか。