問題は存在しない?

最近、ヴェーダの問題解決法というのを学び始めました。

また、詳しくシェアできると思いますが、ヴェーダでは「問題は存在しない」と言います。

マハリシはこんな風に言います。

「あらゆる問題への答えは、問題などどこにも存在しないということです。この真理を認識できれば、すべての問題が消え去ります。これが知識の力です。これは、ただちに悟りをもたらす英知の力です。」

奇跡のコースの考え方でも、問題とはすべて奇跡への扉、つまり問題というのは存在しない。ということになるんですよね。

 

ところで、難しいこと抜きにしても、問題って本当に問題?って思うことってありませんか?

わたしの従姉妹はまだ小学3年生くらいなんですが、お肉も野菜もあまり食べなくてうどんとかラーメンとか、あとはお菓子とアイスを食べまくる(笑)という生活をしていて、お母さんとかはそれを心配しているし、問題だって思って困っているんですよね。

でも、全然元気に過ごしているし、もちろん性格も可愛いし、動物が大好きで素直で気持ちの良い子なんです。

子供の方が真実を生きているなあ・・・って思うのは野菜を食べないととか、バランスよく食べないと不健康になるというのは「概念」であって、つまり、この世のルールであって、真実ではないんですよね。

それは、単なるルールであって、そうでなくても大丈夫なことです。

だから、かすみを食べて生きている人もいるし、不食の弁護士さんも本とか出されていますよね。

本当は、食べなくても生きていける、それが、お酒でもタバコでも逃避のためではなく好きで罪悪感なくやっているなら、それが害になるということは、究極的にはないんですよね。

 

私たちは問題じゃないものを見て、問題だと思っていることがすごく多いと思うんです。

勝手に問題だと思わされていると思ってもいいかもしれません。

例えば、母親だったら無条件に愛さなければいけないとか、ちゃんと育てなきゃいけないとか、そういうよくわからないルールに自分を当てはめて、ああ、自分はダメなんだとか、自分は不十分だとか、自分を裁くんですよね。自分は問題のある母親だって思ってしまうんですよね。

そういうお母さんが、きっとそれを子供に投影してしまって、ちゃんとしなさい、ちゃんとしなさいって、子供の問題は自分の問題だと思い、そうやって子供を厳しくして責めてしまったりするのかもしれません。

子供の頃からだって、あの子は足が速いけれど自分は走るのが得意じゃない、とそんなとき、自分というのは運動ができないんだ、自分は欠けているんだ、と運動が得意じゃないことが問題になってしまう。(自分の大好きな子がたまたま運動が得意なあの子と両想いなんて聞いた日には、自分は運動ができないから好かれないんだ・・・とか思っちゃうんですよね 笑)

算数で30点だと、算数のルールに従って答えていないってだけで問題児、落第生になってしまう。

女性は25歳までに結婚できていないとおかしいというよくわからないルールがあって、40歳になって結婚していない自分はダメなんだ、問題があるんだと思ってしまう。

結婚したら子供を産むのが普通、子供がいることが一人前の大人という超絶意味不明ルール(笑)なのに、子供ができないというのは自分たちに問題があるからなんだとか。

借り入れがあるのは悪いことだ、問題だ。借金は悪いこと。自分は問題人間だとか。

 

私たちは、本当は問題じゃないことを問題だと思って、自分はおかしい、と思ってみたり、問題児になりたくないから、問題を持たないように頑張って一生懸命に世の中に合わせようとしているんですよね。

 

昔、母が「家庭の医学」という本を持っていました。

昔はどの家庭に一つはあったのでしょうか?症状からどの病気かを予測できる広辞苑のような辞書です。

すると、胃がかるく痛いとかでも調べると「癌かも!」とかなるんですよね。(笑)

それで、みんなで話していたのは「調べればどれでも当てはまるよね」って言ってたんです。

 

問題ないのに、問題があるのかな?って思ってしまうというのはそういうことと同じですよね。

問題というものさしにに自らを無理に当てはめてしまう。

そういうことを私たちはやっているのだと思います。

 

本当は、この世の基準の方が間違っているのに、間違った基準の方に自分を照らし合わせて「自分は間違ってる」「自分は問題がある」ああ、大変だ!!!直さないとって、そういうことをみんなでずっとやって小さい頃から生きてきてるように思うんですよね。

無限に大きい自己を小さな概念(人間世界のルール)に当てはめようとして、あれ?あれ?ってなっているのが人間なんだと思うんです。

 

だから、本当は何も問題がないのに、自分には問題があると思って、自分はダメだ自分は欠けているとジャッジや自己否定をして、その自己否定の思いを世界に投影してそういう世界を見ているのかもしれないんです。

 

「どんな自分も受け入れる」というのは、世の中の基準に照らし合わせてそれに足りていない自分だけれどそんな自分でも受け入れなきゃいけない、という意味ではなくて、「実は自分には問題なんてなかったんじゃん!」って気づくことだと思うんですよね。

欠けている自分でも好きになる、って普通思えないですよ(笑)
欠けている、ダメな自分って思うのがそもそも違うのだから。

エゴが作り出したこの世の基準に照らし合わせて、それに100%完璧に当てはめて合格できる人というのは存在しないので(世界は相対的なのでそうなっています)外からどう見えたとしても、この世ルールというのはみんなが負けるようにできているんですよね。

エゴはファンタジーが好きですから、「この世のルールを全て満たし、誰にも何も指摘されないような完璧な人間になれるはず」だと信じているんですよね、でもそうなれないのは自分がダメだからとか、完璧になれないのは親の育て方のせいだとか、経済状況のせいだとか政治がとか、子供の頃の先生がとか、友達がとか、とにかくそういう方向に持って行こうとするんですよね。

でも、世の中の“おかしな基準”を100%満たせる人なんていないし、無理に合わせようとするからみんな苦しんでいるんですよね。

世の基準の完璧さになんて誰も当てはまらないです、概念を満たせないです、やっても無駄なんです(笑)

世界の方が小さいのだから。

だから、世界の基準に合わせられない自分にバツ印をつけないでください。

小さな世界に合わせて自分を小さくしないでください。

世界に合わせようとしないでください。

基準の方が間違っているのだから、誰にも問題なんてなかったんです。

 

最後に・・・

それでも世界に受け入れられたい。

世の中に受け入れられたい、みんなに劣っているとなんて思いたくない。

そんな思いが湧いてきたら、それをそっと天にゆだねてしまってください。