出来事に意味を与えるのは自分

先週末に大きな台風19号がやってきましたね。

数十年に一度の大きさの台風と言われていたため、私の家にも3家族が避難しにやってきました。

そこで気づきがあったので少し書いてみたいと思います。

 

私の家に避難に来たのは川の近所に住んでいたり、海の近くに家を持っていたりする親戚で、大人はみんな家が流されることを心配していたんですね。

こちらに来るまでの間の強い風雨や、街に鳴り響いた避難のアナウンスなどについても「怖かった、怖かった」と話していました。

でも、同じ場所から来た親戚の子供たちは全く気にしていなかったんです。

むしろ「家が流されたら新しい家に住める!」とどこか期待しているようなことも話していて、そういう見方もあるんだ・・・と思ったんですね。

子供は大人よりもずっと「怖れ」が少ないんですよね。大人のように長年の間で身につけた制限の観念や不安がないんですね。

「台風で家が流されてしまうかもしれない」

という同じ場面を見ても、見る人によってどんな意味があるかはそれぞれ異なるのだということをそのまま見た気がしました。

怖れの少ない見方ができればできるほど、安らかな心でいられるんですよね。

 

以前読んだある本に、こんなお話が書かれていたんですね。

ネパールに住むまだ5歳くらいの小さな子供のお母さん(尼僧)が病気で亡くなってしまったんだそうです。

でも、その子は「天に召されることはお釈迦様になることであり、喜ばしいこと、また生まれ変わってくる」という教育を受けていたんですね。

だから、お母さんが亡くなった時も喜びに目を輝かせながら涙ひとつみせなかったんだそうです。

小さな彼女は「死とは素晴らしいことであり祝うべきこと」と考えていたため、大切な人が亡くなることは彼女にとって喜びの出来事だったのです。

小さな子供にとって大きなストレスにもなりかねないようなことも、信じていることが異なっていれば喜びや希望になってしまう。

今回の子供達の反応を見て「出来事そのものには本来何の意味もない」という奇跡のコースなどで語られている意味が真実であることを改めて感じさせられたように思いました。

 

テレビを見ていたら今回の災害で、助けてくれるボランティアの人たちとのつながりや家族の結束が深まったこと、そうしたことに涙しながら感謝の気持ちを話していた被災者の方がいました。

私の親戚にも、自分の家が流され、壊れてしまう危機に直面している場面でも、久しぶりに親戚がみんな集まれたことにまるでお正月みたいだと喜んでいる人もいました。

こんな光景を見ながら、ある作家が

家が焼け落ちたおかげで星空がよく見えるようになった。

というようなことを話していたのを思いだしました。

 

何かが起きた時、多くの人は嘆き悲しむと思います。そして、もちろんその権利があると思います。

私も大切にしているものや、大切にしていた人と離れなければならない場面に遭遇すればきっと悲しむと思います。

けれど、必ずしも出来事によって深い悲しみや嘆きを感じる必要はないのかもしれない。

どちらを選択することも自分次第なのだと、そんな可能性が見えた気がしました。