他の人が心配、助けないとと思ったら

例のごとく、今日書かせていただいていることも、誰か特定の人やクライアントさんに向けてというよりも、祈りの後に降りてきたメッセージを整理したいので書いています。タイミングの合う方とシェアできたら嬉しいです。

 

私たちの多くは、周りの人たちも、すべてもうまく行って欲しい、幸せでいてほしい、願いが叶ってほしい、健康でいてほしい。

そんな風に思っていますよね。

親、子供、友達、パートナー、好きな人、ペット、クライアントさん、患者さん、お客さん、他の国の人たち・・・

みんな、自分以外の誰かしらが健康でいてほしい、幸せでいてほしい、望みが叶ってほしい・・・

それに、悲しまないでほしい、苦しまないでほしい、辛いって顔をしないでほしい、元気になって欲しい、そんな風にも思うと思うんです。

大切な人ならなおさらです。

 

そして、そう考えた時、普通は何が起こるかといえば、相談を受けた相手がいるのなら、その人たちをなんとか救い出そうとアドバイスするかもしれませんし、手を貸すかもしれません。こんないいものがあったよ、と役に立ちそうなものをすすめるかもしれません。年少者や近しい人であれば、先回りをして道をならしてあげようとするかもしれません。あれこれと、甲斐甲斐しく世話するかもしれません。

実は、私たちの多くの人生というのはそういうことで溢れていて、そういう生き方で一生が過ぎ去ろうとしているのかもしれません。

わかりやすくいうと、「みんなが他人の人生をなんとかしようとして生きている」ということです。

それは一見すると良いことのように感じるかもしれませんが、問題なのは、

 

1 自分(エゴ)は決して他人を救うことはできないということを忘れている

2 頼まれてもいないのに、手を差し伸べてしまう

3 他人はこうあるべきだと自分の中の理想に相手を収めようと、手出しをしてしまう

4 他人のあるがまま、他人の魂の計画を尊重できない

5 エゴの物差し、過去の物差し、既知のことで他人の問題を解決しようとする

 

ということなんです。

ちなみに、上に書いてあることをしていると「共依存」とか「ケンカ」になります。

そして、そのような関係からは必ずと言っていいほど「罪悪感」と「怒り」が生まれます。

 

私(自我)は、他人に対して本当は無力なんです。

自我は、他人を救うこともできないけれど、傷つけることもできない。

私という自我は他人に対してなんの影響力も持っていないんです。

でも、自分には力があるし、他の人を救えるはずだし、苦しんでいる人がいるなら救わないといけないし、幸せにすることができると思ってしまっているから、それが不可能にも関わらず・・・

だから、自分は他人を救えなかった、自分は無力だと最後は罪悪感を感じ、苦しむんです。

そして、その苦しみを、無力感を見たくないから、次に助けられそうな人を探してまたそこでも共依存のような関係を繰り返していく・・・

または、一向に幸せにならない、笑顔にならない相手に怒りを感じていく・・・

相手が理想の形にならない、何をしても変わらない、それに怒りや失望を感じていく・・・

 

そんな風に、多くの人が、言わば「先延ばし」をして生きているんです。(潜在意識の記憶の再生)

多くの人が、自分は他人に対しては無力だということを忘れて、他人にとって重要な人になろうとしたり、必要とされようとしたり、影響を与えようとしたり、救おうとしたり、そういうことをやって、自分の人生を生きることを、つまり、光輝くことを先延ばしにしています。

エゴの作戦は、他人が幸せになったら、笑顔になったら、病気が治ったら、この人の夢が叶ったら、やっと私も幸せになっていい。

そういう作戦です。

だから、いつまでも自分が幸せを受け入れることを先延ばししているんです。

 

でも、残念なお知らせは、

自分が幸せを受け入れるまで、誰も救うことはできません。

ということです。

しかし、朗報は、

自分が一番に幸せを受け入れていい。

ということです。

 

つまりは、助けようとしても助けられない人(幸せになることを自分に許せない人)がいつも人生に現れるということは、それは鏡ですから、自分が幸せを受け入れていない。そういう意味なんですよね。

助けを求めにやってくる人は、「幸せをどうか受け入れてください」というメッセンジャーなんですよね。みんな、あなたに助けてもらおう、幸せにしてもらおうと思っているのではなく、あなたが幸せになるのを待っているんです。

 

私たちのほとんどの心の中には、共依存の関係から生まれたおかしな罪悪感が存在しています。

その罪悪感が語りかけるのが、「自分はまだ幸せになってはいけない、なぜなら罪を犯してきたからだ。」という言葉です。

本当は、誰からも何もされていないし、誰にも何もしていないのにです。

自分が誰かからなにかをされて傷ついていると思っている時、同じだけ、自分は誰かを傷つけたと思っているし、それをリアルだと思っている時は、「自分は他人に対して力がある」という幻想を信じているんです。

誰かが自分の理想通りでない、と憤慨している時、自分もまた相手の理想通りの存在になれなかったと、罪悪感を感じているのです。

 

しかし、他人も自分に影響を与えることもできなければ、自分も他者にどんな影響も与えることができません。

自分が他者に対して力があり、他人も自分に対して影響力があるということが、単に幻想であると分かった時、


「自分が犯したと思っている過ちは何事も、誰をも、変えることはなかったし、誰かや何かをだめにすることはなかった。自分は破壊力など持っていなかった」

と気づくと思います。

もっと言えば、

それは起こるべくして起こったことであり、自分には何の責任もなかったし、それは、自分の過ちですらなかったということです。(集合意識の記憶の再生をみんなで演じているだけだから)

 

だからこそ、他の人が心配、他の人を助けたい、と思った時、

自分が他の人をなんとかしなくてはいけない、面倒見なくてはいけないと罪悪感や負担を感じた時、

そう思った時こそ、他の人に手出し口出し、するのではなく、

私が幸せを受け入れられるよう助けてください。

という祈りだけがもっとも有効だし、唯一できることなんですよね。

 

実は、他の人のためにできることというのは、

自分が幸せを受け入れることだけなのかもしれません。