今、世の中のニュースはコロナ問題よりも総裁選といった雰囲気ですね。
菅さんに岸田さん、石破さん、どの方のことも知れば知るほど、人間らしくて、みんな素敵だと感じます。
菅さんは昔からコツコツと苦労や努力をしてきている人、岸田さんは輝かしい経歴のプリンスだ、なんて言われていて、私としては違和感を感じていました。
そうしたら、案の定、岸田さんが「3年連続東大に不合格し結局、他の大学にいった」というお話が耳に入ってきました。
外側からどう見えても、輝かしい経歴のように見えても、大変な時期のない人、挫折の経験のない人というのは一人もいないんですよね。
私たちの多くは、苦労し、困難でも努力する人を称える傾向があるし、苦労していない人間は一人前じゃないと思う傾向もあり、苦労がない人と思われることが嫌だと感じる人もいると思います。
苦労しないこと、苦労しないでうまくいくことに罪悪感を感じている人も実はたくさんいると思います。
特に、親が苦労していたりするのを見ていると、自分も苦労しなければ悪いと無意識に苦労を選択してしまう場合もあります。
世界では、エゴによって
苦労 が勲章のように大切にされてしまっていて、
「どん底から這い上がる」ストーリーを無意識のうちに選択してしまうということを実はやっている人たちも多くいます。
心のどこかで、苦労を信奉している人が多くいて、その人生を無意識のうちに選んでいるということです。
それから、これは自然な法則なのですが、
愛というのはその時々で困っている人、弱い人、辛い体験をしている人へと流れる傾向にあるんですよね。
被災地にはたくさんの支援が送られるのもそのためだと思いますし、
わかりやすい例だと、3人の子供がいて一人病弱な子がいたらやっぱりお母さんの注目はその弱い子にいくんですよね。
病気の時や具合の悪い時、辛いことがあった時はお母さんやパートナーが優しかったという人も少なくないと思います。
私たちも、有名なタレントさんや文化人が元気で活躍している時よりも病気になったとか聞いた時の方が応援してあげたいと思う傾向があると思うんです。
私たちはそういう様子をやっぱり小さい頃から見てきていているので、自然に「大変で苦労している自分」でいたら愛されるかもと、“無意識”に選択してしまう人も少なくないと思うんですね。
奇跡のコースのティーチャー、マリアン・ウイリアムソンさんは、喉の痛みを癒す時の気づきとして、こんな風に書いています。(「愛への帰還」より)
病気になると人がもっと愛してくれました。
みんなに愛され、注意を払ってもらうという報酬を得るために、自分の肉体的な弱さという考えを黙認し、それに同意してしまったのです。
称賛も、ケアも、注目もそうですが、全部言ってみれば「愛」ですよね。
外側からの愛を欲しがるということそのものが、
実は、「自分は弱いです。自分には価値はありません。自分は欠けています」
という宇宙への表明だし、アファメーションになっているということです。
そして、それが実際に問題や病として現れうるということです。
マリアンは、友人たちから愛が欲しい、注意を払ってもらいたいという思いから、選択を誤ってしまったことを、神に委ねて癒してもらったそうです。
その後、奇跡が起きて、喉は癒されました。
自分は弱い、自分は苦労している、自分はかわいそう、自分は被害者・・・
その想いは、外から愛が得られるかもしれないというエゴの誘惑に乗ってしまったことを表しているんですよね。
その代償はとても大きいものなのに、報酬は一時的なもので決して満たされることはありません。
愛でも、称賛でも、お金でも、安心でも、どんなものでも、外側から何かを得たい、
そう思っている時はいつでも、自分では気づいていなくても、
「弱くて欠けている自分」を選択している、
それゆえ、心が「苦しみストーリー」を創り出し、それを体験することになってしまうということを覚えていたいです。
それから、苦労していないと人の気持ちがわからないとか、苦労したから人の気持ちがわかるとか、そのような理解の仕方もよく聞きますよね。
苦労している人だと、人の気持ちをわかってくれるはず、良い人かもとちょっと期待する部分もあると思います。
けれど、私の経験からになりますが、苦労してきたと自分のことを思っている人ほど、他の人の苦労や心の痛みを見逃しがちな部分もあると思います。
自分はこんなに苦労してきたと思っていると、その程度で苦しいの?甘ったれているって他の人のことを思ってしまいがちな部分もあるんですよね。
あなたは私よりも恵まれてるよ、って思ってしまうこともあると思うんですね。
私の一番心の支えになった人は、「自分は幸せに生きてきたからわかってあげれないけど」と言ってくれた、いつも楽しそうな人だった気がします。
だから、苦労しないと人の気持ちがわからないし、苦労していないと人に認められない、好かれない、というのはエゴの嘘なんですよね。
人生経験のない小さな子供たちってすごく思いやりがあるし、優しいですよね。
苦労しなくても、初めから「愛」を私たちは知っているんです。
今回の総裁選を見ていて、「苦労」についていろんなことを考えました。
やはり、私の中に「苦労」をしてきた人を贔屓してしまいたくなる気持ちがまだあり、それの裏返しとして、自分自身も人からの愛を得るために無意識のうちに「苦しみ」を選択していたのかもしれないという気づきがありました。
他の人、私自身の苦労から本当の意味で自由になりたいと思いました。
苦労はもう選ばないでいい。
幸せでいていい。
幸せでいた方が他の人に優しくできる。
幸せでいた方が愛される。
ということに気づいていたいです。
苦労を選んでしまっていることに気がついた時はこのお祈りを。
「私が間違いを犯した場所まで心を戻します。どうか私の認識を癒し、誤った心による思考によって生じた結果から私を解放してください」
そして、
私たちは誰もが自由で、なんでも成せるということを思い出したいです。
苦労する自由も、苦労しない自由も、苦労して幸せになる自由も、苦労しないで幸せになる自由もあるということを。