「ゆるし」をもう少し深めてみる

奇跡のコースの「赦し」は本当にわかりにくいところで、海外の先生方もいろいろな見解があるようですが、もう少し掘り下げて、私自身のためにも復習のノートとしての意味も含め書いてみます。

 

奇跡のコースの、ゆるし、というのは

「鏡の法則」とは異なります。

相手の中に見ている嫌悪するべきものが、自分の中にも“ある”から相手のそれを許すことで自分の中の罪悪感を消滅させる。

という考えとは異なりますし、

相手が自分を傷つけたけれども、慈悲深くなり私は仕方なくそれを許す。という意味とも異なります。

 

例えば、ある人が自分を「都合よく利用する」ということに自分が怒りを感じているとします。

多くのスピリチュアル(鏡の法則的)な考え方だと、「自分も人を都合よく利用するところがある」と考えなさい。

そして、相手を許しなさい。自分が許されるために。

という風になります。(私も過去の記事でこれに近い解釈をしています)

 

この例を奇跡のコースの「ゆるし」を“コースに忠実に”考えてみると、

例えば、こうなります。

 

あの人は私を都合よく利用して、私を怒らせる。傷つける。無価値だと思わせる。

けれど、もともと、私の心の中に怒りや、傷ついた気持ち、無価値感が存在していた。

なぜ、私の心の中に怒りや傷、無価値感(これらはすべて罪悪感といえます)があるのかというと、私自身が、はじめに「神から離れたい」と望んで、神の愛を拒否し、エゴを選んでしまったから。

神の愛を拒否したことに罪悪感を感じることを選んだから。(神の愛を拒んで、神から離れたことで、自分は罪深いと思ったことを赦し手放す)

神から離れたことを罪だと思ってしまったけれど、もうこの選択をし続けたくはない。別の選択をしたいです。(自分で罪悪感を感じることを選んだという部分が要です。忘れ去られていますが、自分で選びました。)

そして、ホーリースピリットに「別の選択」ができるように助けてください。と、お願いします。

 

 

こんな風に見ていくと、私たちの多くがスピリチュアルな世界を知ってから教わってきた鏡の法則に根ざした「許し」というもの、「投影」というものがいかに厳しいものだったかがわかりますよね。

だって、相手の中の嫌な行為を自分もしているということを受け入れなさい。って言われてきたんですよ。

嫌な人は、あなたそのものですって、それを受け入れなさいって教わってきたんですよね。

 

相手に見える嫌な部分が自分の中にもある。と考える。

という考え方そのものが、罪悪感を存続させるためのエゴの考えだったのかもしれません。実際に、外の世界や嫌な行動をする人がリアルになりますよね。

 

スピリチュアルなことをしっかりと取り組んできた方ほど、嫌なことをする人に会った時に、それは自分自身なんだと思って、自己否定、罪悪感や嫌悪感を感じる人も少なくなかったと思います。

それはエゴの罠ですよね。

でも、嫌なことをされたと思った時、嫌なことが起きた時、結局それが起きた原因は「自分が神からの離れた時に、罪悪感を選んだ」そして、罪悪感を選んだから、自分は処罰に値すると思っていた、罰せられるだろうという怖れを持った、その怖れを外の世界のありとあらゆる人や状況に貼り付けた。

怖れるような出来事、人間関係の不和というのはその罪悪感のバリエーション。ということなんですよね。

そう、

神様からの愛を拒んでエゴを選んだ自分のことを悪いって自分が思っていただけのことだったんです。

でも、当の神様やキリストは、全然咎めていません。

きっと罰を受けるだろうって、震え上がっているのは自分だけで、神様もキリストも全然怒ってもいない。むしろ、いつでも戻ってきなさいと言ってくれていますし、離れたと思っているけれど本当は神様から離れていないんですよね。

 

そう思うと、もっとずっとゆるしがしやすくなりますよね。