見たことや感じたことを信頼してはいけない?

以前、面白いことがありました。

麻生副総理のあの帽子、本田圭佑選手とかキング・カズもかぶっているの見たことあるけれど、ゴッドファーザーみたい(笑)だなあとか、ところでなんであんなにつっけんどんで偉そうなんだろう・・・とか思ったことがあって、インターネットニュースをみると、ちょうどシブがき隊のやっくんが、ワイドショーかなんかで「麻生さんは偉そう」って話していたという記事がありました。

確かに、たくさんの人が麻生さん「偉そう」って検索してるんですよね(笑)

 

そこで、奇跡のコースを思い出し、麻生さんの中に“キリスト”を見ないといけないし、麻生さんも同じ神の子なんだった・・・そう見られるよう助けてくださいってスピリットにお願いしたんですね。

 

そして、この後、たまたま開いたネットニュースの記事のコメント欄か何かに、「麻生さんはマスコミが嫌いだからテレビであのような態度なんです。あることないこと、というかないことばかりマスコミは報道しているから」って書いてあって、まさに麻生さんへの見方が変わってしまったんです。

マスコミが嫌なんだ。って。

傷ついたと感じているのかもしれない。って。

偉そうでもなく、国民に対して威張っているのでもなく、本当のことを報道しないマスコミが嫌だし、そういうマスコミに対しての態度だったんだ。

って思ったら、麻生さんに対しての見方が変わりました。

むしろ、あのような「偉そうな麻生さん」として、切り取っている、そういう報道の仕方をしているのはマスコミで、テレビ以外ではたくさん優しく親切な姿を見せていたりするのかもしれません。私は、何も知らないのに、勝手なイメージを持ってしまったということです。

 

 

私たちのものの見方というのは本当にあてにならないですよね。

私もずっとそうでしたし、今でもうっかり(笑)反応的にやってしまいますが、何かを見たとき(知覚)の自分の反応というのは信じてはいけなかったんですよね。

誰かや何かを見たときに、あの人はあんな風に感じているんだろうとか、あの人はこんな人だとか、私はあの人から苦しめられたとか、ネガティブなエネルギーをもらったとか・・・誰でもそういう風に他の人を見てきたし、その判断を信じてきたと思うのですが、それは単に自分の自我の考えなんですよね。

よく、スピ用語で(笑)「もらっちゃう」(「もらっちゃう」は低いエネルギーや悪いエネルギーを人からもらってしまうという意味)という言葉もありますが、ネガティブなエネルギーを相手からもらうという考えを採用するとすれば、自分の中にネガティブなものが「もともとあった」と言っているのと同じになってしまうんです。

誰かから攻撃され傷つけられたと考えるときも、同じように、最初に自分自身の中に攻撃を見ていたのでなければ、相手の中に攻撃を見ることはできないので、攻撃されたと言う時、「自分の中に先に攻撃の想念がありました」と言っているのと同じなんですね。(本当はないのに)

「ネガティブなエネルギーをもらっちゃう」は、スピリチュアルを知っている多くの人が一度は使ったことがあるワードだと思います(笑)けれど、奇跡のコースのティーチャー、香咲弥須子さんがセミナーで「よく、ネガティブなエネルギーを他の人からもらうと言うけれど、ネガティブなものをもらうことなんてないわよ」と話されているのを聞いて、よく考え直したらそうなんですよね。

それまで、私も他の人の悲しみとか、苦悩とか、怖れとか、そういうものが流れてきてそれを感じていると思い込んでいたんです。(なんなら自分のことをHSP だし、エンパスだと思っていました。サイコパスじゃないですよ 笑 これもコースで言えば「まぼろし〜」ですよね。←IKKOさん風で♡)

もしもネガティブなエネルギーを他の人からもらったとすれば、それは自分が自分の身体や五感を神の愛や平和を感知するために使うのではなく、自分があえて、身体や五感を「怖れという幻想」を感知するために使うことを選択したというだけのことなんですよね。

「私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではありません」(W-pI.5)

 

キリストは磔にされても、彼のうちに攻撃の想念がなかったから、攻撃を受けたとは言わないし、迫害を受けたとも言わなかったし、傷つけられたと言わないし、彼らに怒りを抱かなかったのだと思います。だから、誰も彼を破壊することはできなかったんですよね。

 

本当に、自分が相手をどのように見たいと思うか。

それだけなんですよね。

「この人は〜だ。」

というジャッジメントや自我で見ると(自分に苦痛や快楽を与えるものと意味付けると)関係が「怖れに根ざしたものになる」ということなんですよね。

それなのに、誰かを判断すること、決めつけをなかなかやめられないのが私たちの自我なんですよね。本当に、なかなかやめられなすぎてかっぱえびせんのエビもビックリですよ!!(笑)

 

私たちはただ、そういうことをずっとやってきていただけなのに、

どこにいけば本当に優しい人、自分を愛してくれる人、完璧に行動してくれる人、信頼できる人に出会えるのだろうって思って探し求めてきたんですよね。

でも、その人はいつでも目の前に差し出されていたんです。

その人が、本当のその人(愛)を表現するようになるには、私たちの見方を変えるだけで良かったんです。

私たちの自我(怖れや快楽)が与えた意味を信じるのではなくて、あらゆるものには何の意味もないと、自我の解釈を抜き取った後、そこに見えてくるのは、天の光の反映です。

それをする必要があったんですよね。

すべての人は自分のために、目の前にいてくれるし、神の声を伝えるために私たちの目の前にいてくれています。

 

それから、身体の声も自我の声と同じく、信じるものではないです。

身体の声を聞きなさい、という本も持っていましたし、身体の声を聞くっていうのは素晴らしいアイディアとその時は思ったこともあったのですが、身体というのは自我の象徴であり、愛から分離した心が恐怖のために作ったものなんですよね。

だから、その身体に耳を傾けるというのは、自我の声(足りない、弱い)に耳を傾けるということなんですね。

 

私たちは身体ではないから、心の声を聞かないといけないんですよね。

心というのは、マインドではなくて、愛(神)のことです。

 

ということで、麻生さんラブユー♡