「気持ちをわかってほしい」を奇跡のコースから見る

私たちの中には、誰でも、ツーと言えばカーというという「つうかあ」の仲にどこかあこがれる部分があると思います。

ツーカーというのは、あることを話せば、対して説明もしなくても、そうだね、と理解して受け入れてくれるような、つーといったら、かーとすぐ返ってくるというような意味です。

これが美味しいね!と言ったら、「そうだね!」と言ってもらいたいですよね。

これが好き!と言ったら、「そうだよね!これいいよね!自分も好き!」と言ってもらいたいんですよね。

誰も、自分が美味しいものを不味いなんて言われたくないし、好きなものを自分は嫌いなんて言われたくないんですよね。

特に、好きな人(自分にとって特別な人)には同じように、自分の好きなものを認めてもらいたい、理解してもらいたい、理解したい、一緒に同じことを感じているよね、という心が重なった感覚を求める気持ちがあるかもしれません。

 

1つの心を共有する、ワンネスの世界とはまさにツーカーという世界だったと思うんですね。(だって、自分という神一人しかいないから完全に全てが一致しますよね)

私たちは寸分違わず一緒だよね。同じだよね。

そういうワンネスの世界、神と一致していた世界にいたんですよね。

 

でも、その私たちって同じだよね。言葉を使わなくても君のことわかるよ、私とあなたは一つだよ。っていう世界からの分離を選んだんですよね。

私たちが自我の世界(分離)を選んだということは、「そのままでは」決して一致することはないし、すべての人の意見が同じになるということもないし、同じように同じものを見るということはないということです。

 

私とあなたは違うわ。

つまり、神と私は違いますって、神から離れたからです。

ワンネスから離れて、神と違いを作りたいから分離したし、今、自我と自分を一体だと思っているわけですよね。

その分離した自分が見る世界は、

私のものにしたい何かを自分のものにできないし、

他人には完全無欠で神のように対応してほしいけれど、それもかないません。

他の人は自分と同じではなく、自分より優れていて自分の方が劣っているように見えます。

 

分離の世界では利害も不一致なんです。

あなたが勝つなら、私は負ける。

私があなたに与えたら、私の分は無くなる。

 

そういうあなたと私の利害が不一致の分離を生きているんですよね。

その世界に私たちはワンネスから離れてやってきているんですよね。

 

だから、わかってほしいけれど、わかってもらえなかったし、

わかりたいけれど、わからなかったし、

そうだねって言ってほしいのに言ってもらえなかったし、

同じよね、ということを体験することがなかったんですよね。

一緒のタイミングで、同じものを見て、同じように経験して、同じように感動したいという願いは叶ってこなかったんですよね。

だからこそ、誰もが孤独だったんですよね。

自分はあなたとは別と思っている限り、違いを見る限り、誰もが孤独なんです。

自分とあなたは違うという自我の見方を持っている限り、孤独は癒されないんです。

それは、ボヘミアン・ラブソディで有名なクイーンのボーカル、フレディー・マーキュリーが世界中のどれほどのファンに囲まれても、人々に囲まれても、パーティー三昧の日々を送っても孤独が決して満たされなかった理由かもしれません。

私たちのエゴは、自分が特別な誰かになれば、自分の孤独は癒されるはずだとか、自分が特別な誰かを手に入れれば自分の孤独は癒されるはずだという「嘘」を語りかけてきますが、まさにそれこそがわかりあえない、孤独の原因だったのです。

 

私たちの自我(エゴ)というのは本当に自分勝手にできています(笑)

自分の意見に同意してもらいたい、言わなくてもわかってもらいたいと思っていても、誰かと自分を比べた時は自分の方が優れていたいと思ったりするんですよね。自分の方が多く持っていたいと思っていたりするし、自分にしかない「個性」を大切にしたいし、自分の特技は誰かの中に同じようにあっては困るってエゴは思うんですよね。

私とあなたは異なるものでないと困ると自我は思っているんですよね。

私とあなたは異なるものでないといけないと思っているその自我は、「私の気持ちは誰にもわからない。私のことなんてあなたにわかるはずがない。あなたになんてわからない」と言っているのと同じなんです。

人と自分が異なるものであってほしい、人と比べて自分は特別でありたい。その分離の思いがエゴです。

人と比べて自分は特別優れていると思いたい、自分だけが正しくないといけない、人よりも多く持っていないといけないと信じているエゴが、自分とツーカーの仲を誰かとの間に求めるというのも、完全におかしな話なのだけれど、私たちのエゴはそういうものなんですよね。

そして、そのエゴの分離していたいという思いを大切にしている限り、私たちはわかりあえないし、孤独なんです。

 

私たちの自我は、「気持ちをわかってほしい」と頭では思うし、口でも表現するし、「そうだね」って言ってもらいたいと思うけれど、本当に、本当に、心が1つに重なるような、「私たちは一緒だよね」と同意して、孤独が癒えていくような体験をしたいと心では思えていないし、個性がなくなることを怖れているんです。

 

分離から神(ワンネス)へと戻っていくには、相手と自分の利害は同じと見ていくようにしていく必要があります。

 

相手に与えたものを自分が受け取る。

相手から奪うことは、自分から奪うこと。

相手が勝つことは、自分も勝つこと。

相手が負けることは、自分も負けること。

相手を赦すことは、自分を赦すこと。

相手を攻撃することは、自分を攻撃すること。

 

このような見方をしていく必要があるんですね。

相手と自分の利害は一致していると見ていくことで、分離を癒し、神の元に戻っていくことができるんです。

 

奇跡のコースでは、きょうだいを赦しなさい。と言います。

これこそが、利害を一致させて、神(ワンネス)に戻っていく方法だからですよね。

相手を赦すことがそのまま自分を赦すこと(潜在的な罪悪感を取り除くこと)になるからですよね。

 

ここからは私の体験になりますが、

自分がスピリットを意識できていて、スピリットを忘れておらず、静かな心で時間を過ごせるとき、自分の何気ない発言に対して「そうだよね」という返答が返って来やすいような気がします。

それから、自分が分かち合うという“モード”に入っている時というのも、一緒にいる他の人たちと意見が割れることなく「一致する」経験が多いように感じています。

 

そして、ここからは蛇足です。

こんな風に見てくると、それがどう見えても「自分にとっていいことしか起こらない」という結論が導かれてきますよね。

外なるものと、自分の利害は一致しているわけですから。

そして、“その位置”に心を戻していくと、やはりそのような経験をしていくことになるのではないかと思っています。