満たされないと感じた時に思い出したいこと

何かが、どこかが満たされない気持ち・・・

私自身もそのような気持ちを体験したことがあります。

なぜ満たされることがなかったのか、なぜ、空虚さを感じていたのか、奇跡のコースの学びが深まるに連れて理解が深まっているような気がしています。

奇跡のコースには身体をどのように使うべきか、という内容が書かれている場所があります。

身体は、神の子が正気に戻るための手段です。それは、逃げ道のない地獄へその人を閉じ込めるために作られましたが、すでに天国というゴールが地獄の追求と差し替えられています。神の子は、兄弟に手を差し伸べ、兄弟が一緒に歩むよう助けます。(ワークブック・パート2・5・4:1−5)

 

私たちが満たされないし、空虚だと感じる時というのは、自分の身体の使い方を誤っている時だと思うのです。

どういうことかというと、何かを欲しがって、何かを獲得するために身体を動かしているとき、いつも不安定だし、満たされないし苦しいということです。

身体が自分だと思っている時、私たちは空気や水、食料はもちろん、常に外側から何かを必要としている状態だと思うんです。

その体の自分は外側の誰かからの愛や承認(お金や地位や名誉の場合もあるかもしれません)を常に必要としています。

外側の愛や承認を獲得するために生きている時、逆説的ですが、私たちが満たされたと感じるということはないんです。

外側の何かを欲しがって、それを獲得するために生きている時、私たちは「自分の人生は満たされていないことを証明してください」「私自身も私の人生も不完全です、それを証明して見せてください」と宇宙に発信しているのと同じことなんですよね。

これは、欲しがることがいけないということではなくて、単にエネルギーの力学のお話です。

 

なぜ、私があんなにも飢えていたのか、不平不満ばかりだったのか、時には空虚だったのかと、思い巡らせてみると「獲得するために生きていたから」と言える気がするんですね。

そして、なぜ獲得するために生きていたかといえば、本当は愛が怖かったからだと思うのです。自我が、愛によってコントロールを失うこと、「本当の自分」が恐ろしかったのかもしれません。

 

先ほど、「神の子は、兄弟に手を差し伸べ、兄弟が一緒に歩むよう助けます」という言葉を引用しましたが、私たちが本当に満たされたと感じるのは、「自分が誰かの役に立っている(自らを喜びと共に分かち合っている)」と感じているときではないでしょうか。

これはよく聞く話なのでご存知の方も多いかもしれませんが、定年退職後、なにかしらの目的のない方は天に召されるのが早い、と聞きます。

自分を社会で「役に立てられない」つまり、自分の中の愛を分かち合うような機会がない。ということが、私たちの生命力が減退してしまう原因となっているように思うんですね。

私の叔母は、長いこと「いつ死んでもいいの・・・」と言っていたのですが、少し前に孫が生まれてから、「いつも宴会みたいなもの」と言って、孫を遊びに連れて行ったり、細々としたお世話をしたり、最近はバスでイオンに初めて連れて行ったと喜んで話してくれました。今は、叔母から以前のような発言はまったく聞こえてこなくなりました。

 

私たちは、エゴによって、満たされないのなら外側の何かによって埋めるしかない。自分が満たされないのは、愛してくれない人たちのせいだったり、欲しいものが手に入らないからと思わされてきたのですが、本当は、誰かを助けることに自分を役立ててもらうことで満たされるようになっているのではないかと思うんですね。

「誰かを助ける」ということで自分が救われるのだと思うんです。

助けるというのは、本当の意味で助けること、つまり、自我の目で見て「足りない相手」を埋めるために相手が欲しがる何かを外から付け足すということでもないし、自己犠牲をすることでもないんですよね。

本当に役にたつ、というのは私たちの自我では方法も相手もわからないことなので、スピリットに「自分を他の人の役に立つように助けてもらう」ということですよね。

エゴは、こんな方法でこの人の役に立ちたいのに自分にはまだ無理かもしれない、と語りかけてくることがあるのですが、スピリットにお願いすると、今の自分でもできるような形で他の人の役に立てるよう自分を使ってくださいます。

 

外側から見て、はっきりとその違いはわからないこともあるかもしれませんが、同じようなことをしていても、それが獲得するための行為なのか、愛を表現するための行為なのかで、自分自身が満たされる度合い、発している波動が異なるんですよね。

 

私たちの深い部分には、たくさんの愛があって、本当は思い切り愛したいし、相手の役に立ちたい、助けになりたい、という本当の思いがあります。

それこそが、「本当の私」が望んでいることだからこそ、何かを獲得するために生きても満たされることはないんですね。

 

本当は安心してハートを開いて、自分の中の愛を思い切り表現したい。

心の光を自由に、躊躇することなく、放射したい。

それが私たちの本当の本当の願いだからこそ、獲得するための人生じゃ満足いかないのではないでしょうか。

 

満たされないとき。

本当は愛がたくさんありすぎるのに、その愛がでたがっているのに、こんな愛じゃ不十分だと、不完全だと、閉じ込めていることで苦しんでいるはずだし、ハートを開いて愛を表現するのを怖れているのかもしれません。

 

そんな時は、

私の中の愛の声を聞きたいです。

私の中の愛を生きたいです。

それを助けてください。

とお願いしてみてください。