久しぶりのブログ更新になりました。
新しい年を迎えると、目標や抱負などについて考える機会を作る方も多いと思いますし、自分の生き方について改めて思い巡らす方も多いのではないでしょうか。
今朝、朝食を作りながら考えていたことをシェアしたいと思います。
私のスピリチュアルな旅を思い返すと、その旅の前半は
もっと人に認められるような自分になるために、もっと愛されるような自分になるためにスピリチュアルを「使おう」としていたように思います。
外側の世界から欲しいものを手にするために、スピリチュアルを使おうとしていたんですね。
「足りない」と認識している自分に付加価値をつけたい、世の中を生き抜けるような自分になりたい、そんな風にスピリチュアルに頼っていたように思います。
でも、そうすればするほど、減っていくものも多かったんですね。
例えば、お金ですね。
欲しいものを持てるような、愛されるような自分になろうと、スピリチュアルや自己啓発と関われば関わるほど、お金は減っていったように思います。
そして、飢餓感や劣等感、不安感というのも消えることはなかったように思います。
そして、快と不快を行ったり来たりしていたように思います。
「外側の世界から愛やらお金やら承認やら・・・何かをもらうために生きる。」
とはそういうことなのかもしれません。
苦しい生き方とは、「外側からもらおうとし続ける」生き方なのだと思います。その苦しさが自分の内側に怒りを生むんですね。
自分の中の欲しがるエゴが、欠乏の波動を出していたら、欲しがっても決して満たされることはありません。「欲しがる」からこそ満たされないことがわからずにエゴは自分を満たしてくれない周りの人や世界、神、ありとあらゆるものに怒りを感じるんですよね。
そんなわけで、私のスピリチュアルな旅の前半は「もらうために生きる」「獲得するために生きる」という、スピリチュアルを深める前と変わらない生きかたでした。
けれど、スピリチュアルな旅の中盤に入る頃に気がついたことは、
もっと外の世界に愛を与えるためにスピリチュアルな生き方をしよう。
と思うようになったことです。
もっと世の中に愛と光をもたらすことができるように、天の平和を地上に運ぶために。
そのために、自分が幸せでいよう、そのために自分の心を整えよう。
そんな風に思うようになりました。
足りないから足さなければ。他の人より優れていなければ。
そう思って引き寄せを試したり、奇跡のコースをかじったり、イメージングをしたり、ありとあらゆる方法を試しても、そして何かが実現しても不安が消えることがなかったのは、「自分は足りていない」「世の中の基準に達していない」というような思いが動機となり、愛やらお金やらを「もっともらえるような自分になるために」スピリチュアルに関わっていたからだと思います。
けれど、ある時、人間というのは「神の愛の通り道」に過ぎない、過ぎないというよりも、そんな素晴らしい役割があったんだ、ということが頭ではなく腑に落ちたんですね。
神の愛が自分を通って世界へ流れていく、その媒介なのだと。
人生の目的とは、自らの内に内在しているスピリット(神や愛)と繋がり、その愛を外側へと表現していくことだったのだと、気付かされたんですね。
私が思うスピリチュアルな生き方とは、
スピリットこそが自分であったことを思い出し、それを表現し、世の中に愛をもたらす。
ことです。
ですから、自分の持ち物というのは、神が他の人たちと共に分かち合ってもっと豊かになれるように与えてくれる「借り物」なんですね。
それが物でも、お金でも、才能でも、スキルでも、自分(エゴのやり方)で格闘しながら獲得するのではなく、神の愛を地上に通す過程で必要なものは全て神から与えられるものなんですよね。
欲しいものを手にしなければ、そういう自分になれなければ自分なんてダメ人間だと思いながら自分(エゴ)のやり方で奮闘努力するのではなく、他の人たちと分かち合うことを楽しみにしながら自分の中の「ギフト」を優しく育てていくこともできるようになります。
そして、私たちが持つ「夢」や「願い」というのは、神の愛を通すための通り道なんですよね。
夢が叶ったらようやく自分をいっぱしの人間だと認められるというような、夢というのはそんなちっぽけなものではなく、
天の愛を通すための大切なツールなんですね。
それが料理でも、本を書くことでも、演じることでも、演奏することでも、どんなことでも、自分が喜びを感じ、世界に神の愛を送るツールとすることができるんです。
神は私たちがもっとも才能を発揮し、喜びを感じることを使って天の愛を世界に届けることができるよう、私たちを導いてくれます。
だから、夢を一人だけで追う必要ななくて、夢は神様と共同創造していけばいいんですね。
何かをもらえるような自分になるために日々を生きることや、もらうために表現することから、神の愛の通り道となるために生き、自分がもっとも至福を感じることを通して神の愛を表現する。
私の中ではそんなシフトがあったように思います。完璧になど全くできていませんが、神の愛の通り道として生きたい、世界に愛や平和をもたらす神のお手伝いをして生きていきたい。そんな風に思っています。
どう生きたらいいんだろう・・・
そんな風に思った時は、人生には大まかに分けて二通りの生き方があり、
「どうしたらもっともらえるんだろう、もっと得られるんだろう」と考えて、その通りに行動し生きる方法
そして
「どうしたらもっと世界に愛を与えられるんだろう、スピリットの愛を分かち合えるんだろう」と考えて、その通りに行動し生きる方法
の二つがあることを思い出してみてください。
前者はエゴの欠乏感が動機となっており、後者はスピリットの愛や豊かさが動機となっています。
そして、欠乏から生まれる世界は足りない世界ですし、愛から生まれる世界は豊かに増えていく世界です。
どちらにしても、私たちの本質はスピリットなのでどんな道を通ったとしても後者の生き方に導かれていくのだと思っています。
持っているものしか私たちは与えることができませんから、愛を分かち合っていくにはスピリットからの愛を光を心にもっともっと受け取っていく。自分の内側に入りスピリットの愛を感じていく。
ということが大切になっていくんですね。