からっぽな心は豊かでした

今日は、瞑想中に浮かんできたイメージから少し書いてみます。

 

大海原に一人だけ、ポツリと浮かんでいました。

心になんの悩みも、問題もなくて、邪魔する誰かもいなくて、何もなく、たった一人でそこにいて、心が本当に穏やかでした。

気がつくと、今度はまた一人で「わーい!」と言わんばかりに、自分は小さな子供になりはしゃいで砂浜で飛び跳ねて遊んでいました。

色々なところを旅して、冒険をして遊んでいました。

心にはなんのお荷物もなくて、心はからっぽで、でも、それが最高にリッチで満たされる時間なのだと、その時すごく感じました。

 

砂浜で遊んでいる時、ここにはいない誰かのことなんて考えていなくて、大切な人を思い煩うこともなくて、未来のことからも、過去のことからも自由で、心はからっぽなのに、逆にとても満たされていたんです。

思えば本当に幼い頃から、いつも母の心配ばかりをして、離れていても母のことばかりで、どこにいて何をしていても心にはずっと母がいたんですね。

瞑想のイメージの中の子供の自分は、誰の心配もしてなくて、自由に遊んでいて、「ああ、自分はこれが欲しかったのだ」と気づいたんですね。

 

私たちの心は、本当はからっぽになりたがっているんじゃないか。

そう思うんです。

それが本当に大好きな人や子供やペットであっても、その大好きさや大切さで心が苦しくなってしまっていることからしばし自由になる時間を欲しがっているんじゃないかと、そう思うんですよね。

 

私たちの心はいつも何かでいっぱいになっていますよね。

過去のお荷物、未来の不安、大切な誰か、自分を傷つけたあの人、自分の発言は人にどう思われたか、プロジェクトのデッドライン、子供の将来、自分の老後、月末の支払い、晩御飯のメニュー・・・

大きなものから小さなもので心はいっぱいいっぱいなんですよね。

心がぎゅうぎゅうになって、いっぱい入っているのに、全然豊かじゃなくて。

 

だから、みんな、その重荷を手放したくて、いろんなことをして生きているんですよね。

心の重荷を手放したいから、重荷自体を無くそうとしたり、未来の準備をしたり、先回りしたり、早めに仕上げようとしたり、周りの人をコントロールしようとしたり・・・

でも、重荷から一向に自由になれなくて、一つ出て行ったと思った重荷は、また別の形をとって戻ってきたりして・・・

心の重荷から自由になるために、一生懸命にいろいろやるんだけれど、でも、自由にはなれなくて・・・

本当は、心の重荷を手放したら自分の人生は大変なことになってしまう。

本当に自由になったら大変なことになってしまう。

そう信じていて自分から重荷を握りしめているのかもしれません・・・

何よりも、本当に本当に無限に自由になってしまったら、何をしていいかわからないのかもしれません。

 

外の世界から自由になる方法は、外の世界にはないのだと。

外の世界を一生懸命に変えようとしても、外の世界はわたしに自由を与えてはくれないのだと。

瞑想のイメージからメッセージを頂いたような気がしました。

 

何の心配もなく思い切り遊んでいる子供のわたしを見て、

外の世界から自由になりたいわたしは、

今この瞬間を、今、目の前を思い切り生きるしかないのだと、そう思ったんです。

そこには求めていた心の自由があって、最高にリッチな、豊かな時間だったからです。

 

何の心配もなく自由に生きたい。

それがわたしが欲しがってきたもので、それを実現するために、色々な武器を身につけようと奮闘してきたけれど、それは、今、この時、自分が選択すれば可能なことなのだと、子供のわたしが教えてくれました。

今からでも、いつからでも幸せな子供時代を取り戻すことは可能だし、わたしがわたしに「何の心配もしないでいい日々」をプレゼントしてあげたいと思いました。